マーカーは角倉了以屋敷跡碑です。
角倉了以屋敷
[二条大橋南西には,高瀬川最上流の物資積みおろし場である「一之船入」(いちのふないり)があり,高瀬川の支配権と諸物資の輸送権を独占した角倉家はここに邸宅を構え,高瀬舟の運航を管理し,運送業者から手数料を徴収していました。
高瀬川の管理にあたっていた角倉邸は,このほか高瀬川沿いに邸宅を何軒かもっていましたが,一之舟入町の角倉邸が最も大きいものでした。
明治以降,同敷地は民間に払い下げられ,同地には「角倉了以別邸跡」と記された石標が建てられています。 (「都市史22 高瀬川 – 京都市」より)]
角倉氏邸址
[角倉了以(1554~1614)は,国内諸河川の開発整備に従事し,慶長11(1606)年に大堰川・淀川・富士川を疎通させた。慶長16(1611)年この地二条より鴨川の水を引き伏見に達する高瀬川を開削し,京都伏見間の水運を開通させた。明治維新後,角倉家は高瀬川支配を罷免され,府に移管された。この辺り一帯は角倉家の邸地であった。この石標はその跡を示すものである。
所在地 中京区木屋町通二条下る西側
位置座標 北緯35度00分45.2秒/東経135度46分13.2秒(世界測地系)
建立年 1916年
建立者 京都市教育会
寸 法 高121×幅18×奥行16cm
碑 文
[北]
高瀬川
角倉氏邸址
開鑿者
[東]
大正五年五月建之 京都市教育会
[南]
寄附者 田中市蔵
調 査 2002年2月5日 (「NA085 角倉氏邸址 – 京都市」より)]
「中井家絵図・書類 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」 – 「寛永後萬治前洛中絵図(出版年 1642)」[絵図下に七つの舟入時代の高瀬川が描かれ、中央に松平長門守と描かれています。その右に角倉与市(一)が角倉屋敷になります。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – [京師図]」(安永3 [1774] – 絵図中央上方向・妙満寺上方向に角クラと二か所描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全」(文久3 [1863] – 絵図中央右上方向・妙満寺右上方向に角倉、角倉ヤシキと二か所描かれています。)
カメラ南西方向が角倉了以屋敷跡で、門柱前に碑が設置されています。また、カメラ北東方向「がんこ二条庵」の場所が別邸跡です。
角倉了以
[角倉 了以(すみのくら りょうい、天文23年(1554年) – 慶長19年7月12日(1614年8月17日))は、戦国時代の京都の豪商。朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城(京都)の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削した。また江戸幕府命により富士川、天竜川等の開削を行った。地元京都では商人と言うより琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名である。長男に角倉素庵、弟に吉田宗恂。吉田光由は一族にあたる。墓所は京都市嵯峨野の二尊院。
角倉家の本姓は「吉田氏」。佐々木氏の分家であるという。もともとは近江国犬上郡吉田村出身とされ、室町時代中期に上洛し室町幕府お抱えの医者としてつとめた。その後、医業で得た財を元に土倉を営むようになる。了以の祖父・吉田宗忠は土倉業は長男に継がせ、次男に医者を継がせた。この次男・吉田宗桂が了以の実父である。
角倉家は茶屋四郎次郎の「茶屋家」、後藤庄三郎の「後藤家」とともに「京の三長者」といわれる権勢を誇っていたが、他の2家が徳川家康に接近することで急成長したのに対し、角倉家はその以前より成功していた商人であったところが異なる。
「角倉」は運営していた土倉の名前の一つから取られた物である。(wikipedia・角倉了以より)]