近江屋跡碑

マーカーは近江屋跡碑です。

近江屋
[近江屋(おうみや)は京都の由緒ある醤油屋である。現在の四条河原町一帯に土地を持っていた名家、井口家の近江屋井口新助が営んでいた。坂本龍馬中岡慎太郎が暗殺された場所としても知られる(近江屋事件)。なお、現在、「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」と記された石碑が建っている場所は、当時の近江屋の北隣にあたる。建立場所が隣地になったのは、1927年(昭和2年)の建立の際、土地所有者の了承が得られなかったためとされる。近江屋主人の井口家の墓は金戒光明寺にある。 元裁判官の井口博は近江屋井口新助の末裔にあたる。  (wikipdia・近江屋より)]

近江屋事件
[龍馬はそれまで宿舎としていた薩摩藩の定宿であった寺田屋が幕府に目をつけられ急襲(寺田屋事件)されたため、三条河原町近くの材木商鮓屋を京都での拠点にしていたが、そこも幕府側に知られたため、慶応3年11月3日(1867年11月28日)に近江屋(醤油屋)に移った。11月13日(12月8日)、伊東甲子太郎が尋ねてきて、新選組に狙われているので河原町三条の土佐藩邸に移ったらどうかと勧めたが、龍馬は間近の近江屋に留まった。11月15日(12月10日)、夕刻に中岡が近江屋を訪れ、三条制札事件について話し合う。夜になり客が近江屋を訪れ、十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出た。元力士の山田藤吉は客を龍馬に会わせようとするが後ろから斬られた(1日後に死亡)。大きな物音に対し、龍馬は「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と言い、刺客に自分たちの居場所を教えてしまう。刺客は音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入した。そして龍馬は額を斬られた(この他、浪士達が二人を斬る前に名刺を渡してから斬ったという説などいろいろな説がある)。龍馬は意識がもうろうとする中、中岡の正体がばれないように中岡のことを「石川、太刀はないか」と変名で呼んだという。その後龍馬は後頭部から背中、再度額を深く斬られたところで刺客のひとりが「もうよい」と叫んで全員立ち去った。龍馬は中岡に「わしは脳をやられちょる。もういかん」と言い絶命した。中岡はまだ生きており助けを求めるが、2日後に吐き気を催した後に死亡した。  (wikipedia・近江屋事件より)]

カメラ西北西方向に「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」と記された石碑及び案内板が建っている。

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