伏見城跡

マーカーは明治天皇 伏見桃山陵です。

伏見城跡
[伏見区桃山の丘陵に豊臣秀吉徳川家康が築いた複数の城の総称。元和9(1623)年に廃城となりました。現在は本丸跡周辺に明治天皇陵があります。また,その跡地の一部には,昭和39(1964)年に遊園地の伏見桃山城キャッスルランドが開園し,天守閣が作られましたが,これは秀吉・家康の伏見城とは全く別のものです。なおキャッスルランドは平成15(2003)年1月に閉園しましたが,天守閣は残されました。
■秀吉の伏見城
 伏見城の前身は,文禄元(1592)年,宇治川に臨む「指月(しげつ)の岡」(現伏見区桃山町泰長老<たいちょうろう>)に造営された秀吉の別荘。その翌年,嫡子秀頼が誕生したことから,秀吉の隠居城建築の計画が本格的な築城に改められ,天守閣などの城郭施設が整えられました。(伏見城跡・指月城跡発掘調査地点)
 しかし,慶長元(1596)年閏7月の大地震(慶長の大地震)で倒壊,木幡山(こはたやま,現伏見区桃山町明治天皇陵域内)に場所が移され,新たに築城されました。
 10月には本丸が完成し,翌慶長2(1597)年5月に天守閣や殿舎が完成,秀吉・秀頼らが入城しました。聚楽第(じゅらくだい)をはじめ多数の建物が移築されたと伝えられています。同年10月には,「舟入(ふないり)学問所」といわれる茶亭が完成し,宇治川から直接舟を横付けできました。この遺構は,桃山町丹後に南北約300メートル,東西90メートルの窪地として残っています。
 本丸の中央北には,天守閣があり,本丸を取り囲む郭は,秀吉側室の居所とされ,周囲の郭は秀吉側近の邸宅が配置されました。内郭の南東端には,山里丸・御茶山など,自然の景観を生かした学問所や茶亭が築かれました。慶長3年(1598)8月18日,秀吉はこの城で,その生涯を終えました。
 秀吉による伏見城の築城により,伏見は城下町として大きく発展しました。
■家康の伏見城
 秀吉の死後,徳川家康が豊臣秀頼の大老として伏見城に入りましたが,慶長5(1600)年,関ヶ原合戦の前哨戦によって落城。慶長7(1602)年,家康によって再建され,その翌年,家康は伏見城で征夷大将軍に就任しました。家康は将軍在任中のほとんどを伏見城で過ごし,伏見城は,近畿地方における徳川政権の拠点となりました。
 大坂の陣豊臣氏が滅亡した後,一国一城令により京都に二条城と伏見城の2つの城を維持する名目がなくなり,元和9(1623)年の徳川家光の将軍宣下が行われたことを最後に,伏見城は廃城になりました。
 廃城後,各地の寺社などに伏見城の遺構が移築されましたが,これらのほとんどは,豊臣秀吉時代の伏見城ではなく,徳川家康時代の伏見城の遺構と考えられています。
 取り壊された伏見城跡の一帯には,桃の木が植えられ,桃山という地名が生まれました。後年,明治天皇陵造営によって,本丸跡附近が陵地となり,現在往時をしのぶものは,内堀の一部が紅雪池(こうせついけ)や治部池(じぶいけ)として残っているほかはほとんど見られません。
 伏見大手筋は,大手門に面した道路で,大名屋敷にちなむ永井久太郎(ながいきゅうたろう,永井右近<うこん>・堀久太郎),毛利長門(もうりながと),羽柴長吉(はしばながよし)などの町名があります。また,瀬戸物町(せとものちょう),塩屋町,納屋町(なやちょう)など町人町のなごりも見られます。伏見は,城下町でなくなった後も,陸上・水上交通の要所として重要視され,都市として生き続けました。
木幡山伏見城遺構
伏見城石垣 伏見区桃山町伊庭(桃山東小学校内)
豊国神社(とよくにじんじゃ) 東山区正面通本町東入茶屋町
養源院(ようげんいん) 東山区大和大路通七条下る三十三間堂廻り町
正伝寺(しょうでんじ) 北区西賀茂鎮守庵町
源光庵(げんこうあん) 北区鷹峯北鷹峯町
高台寺(こうだいじ) 東山区下河原通八坂鳥居前下る下河原町
金地院(こんちいん) 左京区南禅寺福地町
華光寺(けこうじ) 上京区出水通六軒町西入北側
観音寺(かんのんじ) 上京区七本松通出水下る
御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ) 伏見区桃山御香宮門前町
●桃山天満宮(ももやまてんまんぐう) 伏見区桃山御香宮門前町
正行院(しょうぎょういん) 下京区東洞院通塩小路下る東入
般舟院(はんじゅいん) 上京区今出川通千本東入北側般舟院前町
その他の遺構
 この他,伏見城から移されたと伝える建造物は全国にあります。特に滋賀県大津市西教寺(さいきょうじ)の客殿と広島県福山市福山城の伏見櫓(ふしみやぐら)は,伏見城の遺構として確実視されています。
 中でも西教寺客殿の遺構には棟札があり,慶長3(1598)年に大谷刑部(おおたにぎょうぶ)母と山中山城守夫人の本願によって建立された旨が確認でき,客殿や柱,長押に不自然な裂け目が入っていることから,慶長大地震によって倒壊した指月の伏見城客殿であったと考えられています。  (「都市史20 伏見城 – 京都市」より)]

[木幡山伏見城遺構
徳川期の木幡山伏見城については廃城に際して天守を始め多くの建物が他の場所に移築され、例えば天守は二条城天守へ、本丸御殿は大坂城仮御殿となった。特に福山城広島県福山市)には徳川幕府の西国鎮衛の目的もあり、櫓、城門、殿舎、湯殿、多聞櫓、築地塀、土塀など多くの施設が移されている。なお、伏見城の建物ではないが「伏見」の名称を用いた建物として江戸城と大坂城の伏見櫓がある(ただし、その名称から伏見城の遺構との言い伝えが生まれている)。
移築の伝承を持ち現存する主な施設を以下に挙げる。
城門
●御香宮神社(伏見区)表門(大手門を移築)・wikipedia-photo
●豊国神社(東山区)唐門・wikipedia-photo
西本願寺(下京区)唐門
二尊院右京区)総門
●観音寺(上京区)山門
瑞宝寺旧山門(兵庫県神戸市)
●浄照寺(奈良県磯城郡田原本町)表門(伏見城高麗門を移築)
本山寺大阪府高槻市)中の門

福山城(広島県福山市)伏見櫓(重文・解体修理時に発見された墨書きにより伏見城よりの移築が確定された)
膳所城
岸和田城
尼崎城(非現存)
殿舎
●金地院(左京区)方丈(重文
●日暮御殿 – 都久夫須麻神社滋賀県長浜市竹生島)本殿(国宝
●大通寺(滋賀県長浜市)本堂・wikipedia-photo
その他の建造物
●諸侯控え室 – 三渓園横浜市中区
●移動式能舞台 – 福山城(広島県福山市)、現在は沼名前神社(広島県福山市・鞆町)(重文)
●茶室 – 高台寺(東山区)時雨亭、傘亭(ともに重文)・wikipedia-photo
●軍議評定所 – 渡辺山守綱寺(愛知県豊田市)本堂
●古材 – 蔭涼寺(大阪府和泉市)本堂。血天井で知られる
石垣
淀城(伏見区)
●大阪城(大阪府大阪市
京都市立桃山東小学校には復元石垣列がある。これは1977年(昭和52年)6月、学校付近の土地区画整理事業中に出土したものである。この石垣は絵図などには記載されていない地点で、1592年(文禄元年)の築城の可能性が指摘されている。石材は花崗岩笠置山系の石が多い。またこれとは別に300個近い残石は、伏見城ちかくにある御香宮神社の境内に保管されている。
山城国伏見城諸国古城之図/浅野文庫所蔵(絵図中央下に本丸が描かれています。)

伏見城復元石垣/京都市登録史跡・wikipedia-photo、伏見桃山陵の参道にある伏見城の石垣跡・wikipedia-photo、御香宮神社にある伏見城の残石・wikipedia-photo  (wikipedia・伏見城より)]

上記以外で「Google Earth で街並み散歩(日本編)」で取り上げた伏見城の遺構
源空寺鐘楼門、南禅寺(小方丈)神應寺平等院塔頭・浄土院養林庵書院、二尊院総門、上御霊神社南門、常寂光寺本堂、榮春寺(伏見城の土塁遺構)宝泉院(血天井)、寂光院(雪見燈籠)


(「京都市[PDF] 旧伏見城域-09伏見桃山裏面」より)

地図中央に「本丸」が描かれています。

木幡山伏見城縄張図 画像出典:日本の城 改訂版 3号(「伏見城 – 世界の歴史まっぷ」より)

国立国会図書館デジタルコレクション – 伏見桃山御殿御城之画図」(明治14年に復刻された豊臣秀吉時代の伏見城及び各大名屋敷地の絵図で、絵図中央上に伏見城が描かれています。)

桃山町古城山

カメラ位置は伏見桃山陵前です。