マーカーは伏見奉行所跡碑です。
伏見奉行所跡碑
[慶長5年(1600)9月の関ヶ原の役後、伏見は松平下野守忠吉(ただよし。徳川家康4男)の支配下となり、忠吉の舎人の源太郎左衛門が新たに開いたとされる。伏見には伏見城の城代と奉行二人が置かれた。
慶長7年(1602)~元和元年(1615)の両奉行:柴山小兵衛定好・長田喜兵衛義正
元和元~5年(1619)の両奉行:門奈左衛門宗勝・山田清太夫重次
元和5年8月に伏見城が廃されて城代が無くなる。奉行に任じられた山口駿河守直友以降は1人(寛文5~8年までは3人か)となる。
元和9年(1623)12月に小堀遠江守政一(こぼりまさかず。小堀遠州/えんしゅう。松山藩第2代・近江小室藩初代藩主。遠州流茶道の租)が伏見奉行となる。
それまで奉行所は清水谷(しみずだに。旧堀内村。御陵石段下あたり)に在った。
寛永2年(1625)7月に豊後橋(現観月橋)の北の富田信濃守邸跡に伏見奉行所を築き移転。9年に緑と水が豊かな伏見の景観に合う風雅な館舎が完成した。
11年(1634)7月の将軍徳川家光上洛の折に家光は新築の奉行所屋敷に入り小堀遠州に茶を所望し、立派な庭園を賞賛した。正保4年(1647)2月6日に69歳で亡くなる。
正保4年3月1日~寛文9年(1669)4月10日までの伏見奉行:水野石見守忠貞
この間の寛文5年(1665)7月6日~8年(1668)7月13日に宮崎若狭守政泰・雨宮対馬守正胤も名目上の奉行に任じられるが京の役宅に在り、両者は京の司法を任され京町奉行の初代(宮崎は東町、雨宮は西町)となる。 (「伏見奉行所と伏見奉行 | To KAZUSA」より)]
[伏見奉行所は,慶長5(1600)年に創設されたが,実際は寛文6(1666)年水野石見守忠貞(1597~1670)が伏見支配に専念するようになっったのを最初とする。与力10騎,同心50人が属し,伏見市街と周辺8カ村(享保以降9カ村)を支配した。慶応3(1867)年廃止。慶応4(1868)年正月3日の鳥羽伏見戦では,幕府軍は会津藩を主とした1500人が伏見奉行所等に入り,御香宮神社に陣を張った薩摩藩将兵800人の官軍と対峙した。激しい戦いとなり伏見奉行所は灰燼に帰した。この石標は伏見奉行所の跡を示すものである。
所在地 伏見区西奉行町(桃陵団地内)
位置座標 北緯34度55分51.8秒/東経135度45分57.1秒(世界測地系)
建立年 1968年
建立者 京都市
寸 法 高105×幅18×奥行18cm
碑 文
[南西]
伏見奉行所跡
[北西]
昭和四十三年十一月 京都市
調 査 2002年2月12日 (「HU038 伏見奉行所跡 」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 伏見桃山御殿御城之画図」(明治14年に復刻された豊臣秀吉時代の伏見城及び各大名屋敷地の絵図で、絵図の中央右方向・豊後橋左方向、常磐丁下に「今ハ御奉行御屋敷」「富田信濃守」と記述されています。)
「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 伏見図(成立推定 近世中期写)」(絵図中央右方向・豊後橋左方向に「富田信濃守 今ハ御奉行御屋敷」と記述されています。)
カメラ東方向、団地内塀角地に伏見奉行所跡碑があります。