マーカーは伏見港跡地です。
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伏見港
[伏見港(ふしみこう)は、かつて京都府京都市伏見区に存在した河川港。1950年代頃まで、京都と大阪(大坂)を結ぶ水運の拠点として栄えた。安土桃山時代の1594年(文禄3年)、豊臣秀吉は宇治川の治水および流路の大幅な変更を目的として、一般に「太閤堤」と呼ばれる槇島堤や小倉堤の建設をはじめとする大規模な工事を前田利家らに命じて行ったほか、宇治橋の撤去および巨椋池を介した交通の要衝であった岡谷津・与等(淀)津の役割の否定、さらに小倉堤の上に新設した大和街道と城下を直結する位置に肥後橋を設けたことにより、陸上および河川の交通を伏見城下に集中させた。伏見には、宇治川と濠川(ごうかわ、ほりかわ)を結ぶ形で港が設けられ交通の要衝となり、三十石船が伏見と大坂の間を行き来した。
江戸時代には角倉了以・角倉素庵父子が高瀬川を開削し京都と伏見が結ばれたことから、港の役割はさらに増した。江戸幕府の伝馬所(問屋場)も置かれ、参勤交代の大名が立ち寄るために本陣や大名屋敷も置かれていた。幕末期には坂本龍馬が伏見港の船宿である寺田屋を常宿としていたのは有名である。
明治時代に入り、琵琶湖疏水(鴨川運河)が開通すると疏水とも接続し新たな水運のルートが拓かれたほか、宇治川も新たに開削されたことから琵琶湖への大型船の就航が可能となり、大阪や琵琶湖へ蒸気船(外輪船)が就航した。また、日本初の電車である京都電気鉄道伏見線(後の京都市電伏見線)が港と京都市内を結ぶために建設された。1929年、宇治川の堤防が整備され宇治川と濠川に水位差が生じたため三栖閘門が建設されている。
跡地にある復元模型 – 伏見みなと公園・wikipedia-photo
三栖閘門と三栖閘門資料館・wikipedia-photo
(wikipedeia・伏見港より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 京都名所之内 淀川」(pdf 画像リンク)
「伏見みなと広場 – Google Map 画像リンク」、「十石舟模型 – Google Map 画像リンク」
カメラ東方向が伏見港跡地(伏見港公園)です。