勧進橋(竹田街道)

マーカーは勧進橋です。

勧進橋
[京都駅から竹田街道(24号線)を南に向かうと、久世橋通りで鴨川を渡る。この鴨川にかかる橋を勧進橋という。「勧進」というのは勧進帳でも有名なようにお寺などの建立や修理のために寄付を募ることだが、勧進橋もかつては渡り賃を取られた私有の橋で、渡り賃は伏見稲荷大社の改修費用に充てられたという。渡り賃を取られる橋を昔は「銭取橋」といい、今でもこの名前を残す橋は各地に残るが勧進橋も幕末の頃はこう呼ばれていた。
 位置的には昔の洛外にあたり、あまり歴史とは関係のないような橋だが新撰組活動史の中に2回ほど登場する。最初は元治元(1864)年6月、池田屋事件に怒った長州勢が大挙して京へ押し寄せてきた時、会津藩兵や見廻組など幕府諸隊が九条河原に布陣したが、新撰組も銭取橋下に誠の旗を翻して布陣し、これが蛤御門の変に繋がっていく。
 次は慶応2(1866)年6月、それまで新撰組の中で高い地位にあった武田観柳斎薩摩藩と内通していたとして斎藤一に斬られた場所がこの銭取橋であったらしい。当時は欄干もないような小さな橋だったようだが、明治時代には路面電車も通るようになって、かなり大きな橋になった。  (「勧進橋」より)]

竹田街道
[竹田街道(たけだかいどう)は、京(京都市中心部)と伏見(京都市伏見区)をつなぐ街道の一つ。京の七口の一つとしてあげられることもある竹田口から、旧紀伊郡竹田村(京都市伏見区竹田)を通り、伏見港へとつながっていた。 奈良街道大坂街道の一部とも位置づけられる。現在でもなお京都市中心部と伏見市街を結ぶとともに、奈良方面へとつながる国道の一部として主要な幹線道路となっている。竹田街道は、江戸時代に拓かれたと言われる。車石が敷かれ、牛車による物資の輸送が行われていた。その車石の一部が陶化小学校(※陶化小学校には勧進橋の袂にあった石敢當(せきかんとう)も移設保存されている)に残されている。 1895年に日本で初めての営業用の電気鉄道が、京都電気鉄道の手によってほぼ竹田街道に沿って京都駅から伏見京橋の間に敷設された。この路線は京都市電伏見線に引き継がれたが、1970年に市電全廃に先駆けて廃止された。 翌1971年に竹田街道は国道24号に指定された。  (wikipedia・竹田街道より)]

竹田街道資料リンク
都名所図会」・巻之四 右白虎再刻 鳥羽の車貸
鳥羽の車貸(拡大図)

[鳥羽の車貸は鳥羽院離宮にましまし給ふ時、勅許ありしといひ伝へ侍る。]

拾遺都名所図会」・巻之四 前朱雀 竹田街道の牛車 (竹田)巻之四 前朱雀 竹田 解説
竹田街道の牛車 (竹田)(拡大図)

[竹田街道(たけだかいどう)を通ふ車牛は日毎に伏見(ふしみ)より都へ貨物を積たる也。炎暑には夜を日にかへて牽通ふは牛の疲れざる要意にして牛を飼ふのならひなりとぞ。/沓作る車の上や風薫る衆雲]

カメラ位置は勧進橋です。

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