マーカーは東本願寺伏見別院です。
東本願寺伏見別院
[慶長年間(1596~1614)に教如上人が徳川家康公より寺地(禅宗・即現寺の旧地)を与えられ、援助を受けて建立。(慶長 8 年( 1603 )とも伝えられる)
「蓮池御坊」とも称されるが、これは寺を建立する際に蓮池を埋め立てたからとも、寺に蓮池があったからとも言われる。
鳥羽伏見の戦いの際は、会津藩が宿泊した関係で本堂も損害を受けたため、明治 18 年( 1885 )に南向きに縮小して建て替えられたが、老朽化のため平成 2 年( 1990 )に解体し、仮本堂が設けられた。
そして、旧本堂の解体から約 20 年を経た平成 23 年( 2011 )より、本堂・庫裏の再建に向けた取り組みが開始され、崇敬地域の寺院・教会、ご門徒や地域の方々のご尽力によって平成 26 年( 2014 ) 3 月に完成し、同年 4 月 11 日に竣工式が、翌 12 日に落慶法要と教如上人 400 回忌法要が厳修された。 (「真宗大谷派京都教区 – 別院紹介」より)]
会津藩駐屯地跡(伏見御堂)碑
[所在地 伏見区大坂町(東本願寺伏見別院前)
位置座標 北緯34度55分53.9秒/東経135度45分42.6秒(世界測地系)
建立年 2009年
建立者 伏見観光協会・社団法人伏見納税協会青年部会
寸 法 高110×幅18×奥行18cm
碑 文
[南]
会津藩駐屯地跡(伏見御堂)
[北]
平成二十一年十二月建之
伏見観光協会
(社)伏見納税協会青年部会
[副碑南]
会津藩駐屯地跡(伏見御堂)
伏見御堂は桃山時代の慶長年間に東本願寺の第 12 代法主・教如が創建しました。本堂は徳川家康の居城・向島城の殿舎の遺構を改築したものと伝えられ、大正 4 ( 1915 )年に刊行された『京都府紀伊郡誌』に、寺域は徳川家康の寄進によるもので、蓮池を埋めたことから蓮池御坊とも呼ばれたと記されています。ここを拠点にして教如は家康に働きかけ、七条烏丸に広大な寺領を寄進され、本願寺から東本願寺を分派独立することに成功しました。
幕末の慶応 4 ( 1868 )年 1 月 2 日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約 200 名が伏見京橋に上陸、ここ伏見御堂を宿陣としました。翌 3 日、薩摩藩との間で小競り合いをしている最中の午後4時頃、鳥羽方面から聞こえる一発の砲声に触発され、御香宮の東の高台に据えた薩摩藩の大砲が火を噴き、伏見奉行所を攻撃したことから伏見の町でも戦いが始まりました。本堂の畳を楯に鉄砲の撃ち合いがあったともいわれ、建物は大きな損害を受けたと伝えられています。そのため、創建当初、建物は東向きにつくられましたが、明治 18 ( 1885 )年に南向きに縮小して建て替えられました。平成 2 ( 1990 )年に建物は老朽化のために取り壊され、現在は大銀杏・鐘楼・山門が残されています。
伏見観光協会
(社)伏見納税協会 青年部会
平成21年12月 建立
調 査 2010年1月6日 (「HU158 会津藩駐屯地跡 – 京都市」より)]
「会津藩駐屯地跡(伏見御堂) – Google Map 画像リンク」、「真宗大谷派 伏見別院 – Google Map 画像リンク」
カメラ北方向が東本願寺伏見別院山門で、山門左に会津藩駐屯地跡(伏見御堂)碑があります。