藤森神社

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    藤森神社
    [藤森神社(ふじのもりじんじゃ)は、京都府京都市伏見区に鎮座する神社である。旧社格は府社。 5 月 5 日に行われる駈馬神事や、菖蒲の節句の発祥地として名高い。 6 月から 7 月にかけて紫陽花園が公開され、 3,500 株にもおよぶ紫陽花が見もの。創建年代や祭神には諸説ある。社伝では、神功皇后摂政 3 年( 203 年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国・深草の里の藤森に纛旗(とうき、いくさ旗)を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが当社の発祥であるとしている。当初の祭神は、現在本殿に祀られる7座であった。藤森の地は現在の伏見稲荷大社の社地である。その地に稲荷神が祀られることになったため、当社は現在地に遷座した。そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社の氏子である。なお、現在地は元は真幡寸神社(現 城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した。東殿は、天平宝字 3 年( 759 年)に藤尾の地に崇道尽敬皇帝(舎人親王)を祀る神社として創建されたもので、元は藤尾社と称していた。永享 10 年( 1438 年)に当社に合祀された。西殿は、延暦 19 年( 800 年)に早良親王を祀る神社として塚本の地に創建され、文明 2 年( 1470 年)に当社に合祀された。早良親王は生前当社を崇敬していた。陸奥国で反乱が起こったとき、早良親王は征討将軍となり当社に詣でて戦勝を祈願した。その出陣の日が 5 月 5 日で、これが現在の駆馬神事の元である。
    西参道口・wikipedia-photo

    拝殿・wikipedia-photo

    本殿・wikipedia-photo

    ウィキメディアコモンズには、藤森神社の画像またはその他のファイルが含まれています。  (wikipedia・藤森神社より)]

    藤森神社ホームページ
    藤森神社境内図

    上賀茂神社の菖蒲の根合せ 藤森祭と伏見稲荷 | 京都旅屋 ~気象予報士

    国立国会図書館デジタルコレクション – 伏見桃山御殿御城之画図」(明治 14 年に復刻された豊臣秀吉時代の伏見城及び各大名屋敷地の絵図で、絵図中央左方向に藤森社が、石田治部少輔屋敷が城郭内右下に、徳川大納言家康屋敷が絵図中央右端に描かれています。)

    藤森神社資料リンク
    都名所図会」・「巻之五 前朱雀再刻 藤森社 (藤森神社・一枚目)」、「巻之五 前朱雀再刻 藤森社 (藤森神社・二枚目)」、「巻之五 前朱雀再刻 藤森の社 (藤森神社)解説
    藤森社 (藤森神社・一枚目)(拡大図)

    年中行事大成. 巻之1-4 / 速水春暁斎 画図」・「馬乗始 鳥銃始之図」(1-15)

    藤森走馬図」(5-13)、「解説-1・左ページより」(5-11)、「解説-2」(5-12)

    夏越祓之図」(6-35)

    [大祓は民間では、毎年の犯した罪や穢れを除き去るための除災行事として定着した。民間の場合、6月のものは「夏越の祓」(なごしのはらえ)、12月のものは「年越の祓」(としこしのはらえ)と呼び分けられる。夏越の祓では多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われる。参道の鳥居や笹の葉を建てて注連縄を張った結界内にで編んだ直径数 m ほどの輪を建て、ここを氏子が正面から最初に左回り、次に右回りと 8 字を描いて計3回くぐることで、半年間に溜まった病と穢れを落とし残りの半年を無事に過ごせることを願うという儀式である。かつては茅の輪の小さいものを腰につけたり首にかけたりしたとされる。これは、『釈日本紀逸文の『備後国風土記』に記されている疫隈国、素盞嗚神社蘇民将来伝説に由来するもので、武塔神の指示により茅の輪を腰につけたところ災厄から免れ、武塔神は自らを速須佐雄と名乗り去っていったと書かれている。  (wikipedia・大祓より)]

    藤森神社 拝殿 – Google Map 画像リンク」、「藤森神社 本殿 – Google Map 画像リンク」、「藤森神社 – Google Map 画像リンク

    カメラ東方向が藤森神社の西参道鳥居です。

    藤森神社南鳥居内参道のカメラです。

    藤森神社拝殿南西のカメラです。

    カメラ北方向が本殿拝所で、カメラ南方向が拝殿です。

    紫陽花苑のカメラです。

    駈馬神事開催中のカメラです

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