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藤田権十郎邸・藤田四郎右ェ門邸跡
[◆F088 藤田(権)家文書
藤田家は権十郎を名乗り、横大路村の庄屋をつとめるいっぽう、運送業を生業とした家。
文書の内容は、大きく(1)村・庄屋関係、(2)家業(運送業)関係、(3)明治期の村役場関係、(4)家関係、に分類できる。
(1)は、藤田家が庄屋をつとめていた東福寺領横大路村南方の料所に関する文書で、内容は検地帳(延宝 7)、「東福寺御領持高書付帳」(文化 8)、年貢米目録、年貢皆済目録、田畑・屋敷の高帳、毛附引抜帳、寺割下帳、免割下帳、百姓加役皆済帳、高懸入帳、「指出シ色沢帳」「下検見帳」「免定」「四方町寄帳」「植付帳」、その他諸入用帳などの土地・年貢・課役関係、宗門人別改帳(文化 13、文政 6、天保 2、安政 4)、町・村送り状、寺請状等の戸籍関係、桂川・鴨川の川浚え・藪刈り取りに関する申請、水利工事・屋敷地の普請願、それに証文類・絵図類など多岐にわたっている。このうち水利工事に関する普請願のなかには堤防・水門・樋・悪水抜きなどの工事が含まれ、横大路村がたびたび水害を被った事情を反映している。またこの事実に関連して、救い米・合力米の申請文書・名前帳なども残されている。
(2)は、当家が運送問屋として京上する物資を当地で船から車に積み替えて運送していたことに関するもので、そのなかには車方惣中の文書を多数含む。とくに横大路村は下鳥羽村とともに禁裏料米・二条詰米を荷揚げする港としての役割をもっていたが、両村問屋間ではその荷揚げ量の割り当てに対してたびたび不満が起こったらしく、それに関した申請・約定に関する文書が残る。また、とくに二条詰米については、多数の廻状、勘定帳、運上する近国の代官所・蔵所に対する一札、などがあり、運送の実際を知るうえでの重要な史料である。明治初年のものとしては「淀より二条御蔵迄運送諸入用覚」(明治 2)、「京都府租税米着届控」(明治 8)などがある。その他、冥加銀上納覚・送状・請取状などの証文類が多数残る。車方文書は横大路問屋差配下の車方の動向を知ることができるもので、問屋に対する諸願書・木津屋橋筋 9 町と鳥羽街道筋車年寄との車通行に関する和談一件(延享頃)、「鳥羽海道車数覚」(享保 13)、「車持惣中六組覚」(文化 15)などを含んでいる。
(3)は、当家が村の有力者として戸長・紀伊郡郡会議員の任にあったために残された史料。内容は、明治期から大正期にかけての村会規則・議案・予算案・決算・村有財産明細表・村費出納簿・給料日当簿・人足賃金簿・廻状・委任状などの役場関係の文書、それに桂川に架かる橋の付け替え・修繕や宇治川堤防の切所欠所の修繕・仮堰工事に関する仕法書・申請書類・入用帳、開墾上申書などの土木・水利関係の文書である。またそのほかに、「山背邨々廻巡帳并庄屋人名」(明治 4)、「橋上り銭留帳」(明治 15)などがある。
(4)は、量的には少なく、明治期のものが中心。内容は小作に関するもの、慶事の諸控、所蔵脇差目録などである。 (「【伏見区の文書 解説】 伏見区 – 京都市」より)]
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カメラ北西方向が藤田権十郎邸・藤田四郎右ェ門邸跡です。