マーカーは長円寺です。
長円寺(戊辰役東軍戦死者碑)
[この碑は、慶応4(1868)年正月に勃発した鳥羽伏見戦の東軍(幕府側)戦死者の遺骨を埋めた地を示す碑である。
明治40年に東軍戦死者四十年祭典が京都十七日会により挙行され,あわせて15基の碑が建立された。十七日会は徳川家康の命日である十七日(元和2年4月17日)にちなんだ,徳川家恩顧者の会である。
碑はふたつのカテゴリーにわけて建立された。一は「戊辰之役東軍戦死者之碑」と刻んだ3基の招魂碑(この碑もそのひとつ)。一は「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻んだ12基の碑(墓石)である。それぞれのカテゴリー内の碑は同一形式で,刻まれた文字も表題部は同じ。招魂碑は榎本武揚書。
3基の招魂碑に記された埋骨地碑は,伏見町悟真寺内招魂碑が同寺内2か所。納所村妙教寺内招魂碑が悲願寺墓地・愛宕茶屋・八番楳木。淀町長円寺相招魂碑が同寺内・光明寺墓地・大専寺・文相寺・東運寺・八幡番賀。
上記の埋骨地碑を合計すると11基になるが,長円寺内には2基の埋骨地碑が現存するから,所在は10か所で碑は12基ということになる。招魂碑・埋骨地碑計15基は百年以上たった現在もすべて当初の建立地,あるいはその近辺に残存し,希有な例として注目できる。いしぶみデータベースには15基すべてを収録した。その一覧はここ。
なお,この建碑事業の経緯は京都十七日会編『戊辰東軍戦死者四十年祭典及墓標建設報告書』(1907年同会刊)に詳しい。
所在地 伏見区淀新町(長円寺内)
位置座標 北緯34度53分58.8秒/東経135度43分05.7秒(世界測地系)
建立年 1907年
建立者 京都十七日会
寸 法 高178×幅30×奥行30cm
碑 文
[北]
戊辰役東軍戦死者之碑
[南]
子爵榎本武揚書(印)(印)【印文「武揚之章」「梁川」】
[西]
明治四十年 京都十七日会建之
[東]
戦死者埋骨地六所ニ在本寺一淀町光明寺墓地
一大専寺一文相寺一東運寺及八幡番賀
調 査 2015年9日13日 (「HU043 戊辰役東軍戦死者碑 – 京都市」より)]
長円寺内にはその他、「HU074 戊辰役東軍戦死者埋骨地 – 京都市」、「HU075 戊辰役東軍戦死者埋骨地 – 京都市」があります。
「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 淀惣絵図(成立推定 近世前期写)」[内容より淀藩主が永井氏時代の絵図で、寛永10年以後、寛文9年以前。淀の大橋と小橋が描かれるので、寛永16年以後。城郭内の北側に「亀之介様」(虫損あり、推読)あり、尚征(尚政の子)の子で、後に一門で摂津高槻城主永井直時の養嗣子となる直種か(万治元年生)。概ね寛文初年頃の成立か。やや後年の転写本か。](絵図中央に淀小橋が描かれ、絵図四つ切右下に木津川と大橋が描かれ、その上方向に長圓寺が描かれています。)
カメラ南南東方向が長円寺山門で、山門左に戊辰役東軍戦死者碑があります。