上地図右のサードバーのマーカーポイント名をクリックするとマーカーポイントの吹き出しが表示されます。
「国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(コマ番号2/5・絵図四つ切右上、六孫王権現社 遍照心院と描かれています。)
六孫王神社
[六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ)は、京都府京都市南区にある神社。旧社格は郷社。
清和源氏始祖の源経基を祭神とすることで知られる。多田神社(兵庫県川西市)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つとされる。
祭神は次の3柱。
●六孫王大神(ろくそんのおうおおかみ) – 源経基(経基王)を指す。経基は清和天皇第六皇子の貞純親王の子で、天皇の孫であることから「六孫王」と称される。
●天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
●八幡大神(はちまんおおかみ)
社伝では、境内は源経基の邸宅「八条亭」の跡地であるといい、応和元年(961年)に経基が臨終の際に「死後は龍神となって邸内の池に住んで子孫の繁栄を祈るから、この地に葬るように」と遺言したという。そして、応和3年(963年)9月に嫡子の満仲が現社地に経基の墓所を建立し、その前に社殿を造営したのが当社の創建であるとしている。本殿後方に現在も残る石の基壇は、経基の廟であると伝わる。
鎌倉時代には、源実朝の妻の本覚尼がこの地に遍照心院(大通寺)を建立し、当社はその鎮守社とされたという。その後は戦乱などにより社殿を失い、経基の墓所だけが残されたとも伝える。
元禄13年(1700年)からは、江戸幕府により社殿の再興が進められた。元禄14年(1701年)には正一位の神階と権現号が授けられている。社殿の再建は宝永4年(1707年)をもって完了し、その社殿が現在まで伝わっている。
その後は江戸幕府の滅亡とともに衰微し、また神仏分離により大通寺とも分離した。大通寺境内は、明治44年(1911年)に国鉄の鉄道用地となったため移転している。
近代社格制度では、明治6年(1873年)8月に村社に列し、明治14年(1881年)12月に郷社に昇格した。
鳥居・wikipedi-photo
拝殿・wikipedi-photo
「六孫王経基」月岡芳年筆・wikipedia-photo
誕生水弁財天社・wikipedi-photo、神龍池・wikipedi-photo、鯉魚塚・wikipedi-photo
ウィキメディアコモンズには、六孫王神社の画像またはその他のファイルが含まれています。 (wikipedeia・六孫王神社より)]
六孫王神社資料リンク
「都名所図会」・「巻之二 平安城再刻 遍照心院」(六孫王神社の地にあった遍照心院(大通寺)の図会)、「巻之二 平安城再刻 万祥山大通寺遍照心院 (遍照心院)解説」
「都林泉名勝図会」・「巻之一 遍照心院 (大通寺・一枚目)」、「巻之一 遍照心院 (大通寺・二枚目)」、「巻之一 遍照心院 (大通寺・三枚目)」、「巻之一 遍照心院 (大通寺)解説」、「巻之一 実法院・一枚目」、「巻之一 実法院・二枚目」、「巻之一 実法院解説」、「巻之一 東林院 ・一枚目」、「巻之一 東林院 ・二枚目」、「巻之一 東林院解説」
カメラ西方向が六孫王神社参道です。
カメラ西方向太鼓橋が恋のかけ橋、その先が六孫王神社神門(唐門)です。
恋のかけ橋上のカメラです。
六孫王神社神門(唐門)前のカメラです。