山国護国神社

マーカーは山国護国神社です。

山国護国神社
[戊辰戦争(1868~1869)の時に山国郷の名主・農民等によって組織され、官軍に参加した「山国隊」の戦病没者を祀るため、1869年に設けられた招魂社が始まりです。  (「29 京北 周山 弓削 – 京都市埋蔵文化財研究所」より)]

山国隊
[山国隊(やまぐにたい)は、幕末期に丹波国桑田郡山国郷(現京都市右京区京北)で結成された農兵隊。因幡鳥取藩に付属し官軍に加わって戊辰戦争を戦った。
平安京造都の木材を供給した伝承をもつ山国郷は古くより皇室との関係が深く、山国一円は太閤検地まで禁裏直轄の荘園であった。しかし幕末には禁裏御料は郷内の半分ほどで、村々の所領関係が異なることは、山国の諸村が一体となり山国神社宮座を堅持していく上で問題も多かった。そこで名主仲間(宮座仲間)は、かつての荘園「山国庄」の時代と同様に天皇から正式に官位を授かることなどで地域の一円禁裏御料化を目指し、宮座の結束強化をはかっていた。
このような状況のなか、慶応4年(1868年)1月3日に鳥羽・伏見の戦いが始まった。間もなく山陰道鎮撫総督西園寺公望から丹波に王政復古の募兵があり、前年末頃から御所警備などの勤王奉仕策を練っていた山国では、平安時代以来の皇室との関係と郷中復古(禁裏御料回復)の願いから、直ちにこれに応じて自弁による農兵隊が結成された。
農兵隊には荘園時代の古例により四沙汰人を置き、第一陣「西軍」・第二陣「東軍」の2軍が目的別に編成され、両軍が慶応4年1月11日山国神社に集結し出陣した。
●西軍 (隊士64人客士12人、沙汰人:水口備前守・藤野齋(藤野近江守)) – 山陰道の西園寺との合流を目指したが、道中でこの方面が既に平定されていたことが判明した。しかし鳥取藩の伊王野治郎左衛門(後の久美浜県知事)の仲介もあって、岩倉具視から鳥取藩に付属し「山国隊」と称するようにとの指示を受けることができ、山国隊が誕生した。
●東軍 (隊士27人、沙汰人:鳥居河内守・河原林大和守) – 大坂の征討大将軍仁和寺宮の陣に合流を目指したが上手くいかず、更に「親兵組」と称し御親兵として御所警衛にあたることに拘ったが最後まで不調のまま終った。
山国凱旋
明治2年2月18日、山国隊は大勢の見物人・出迎えのなか、鼓笛を奏して京都から山国への凱旋を果たし山国神社を参拝した。2月25日には死者の慰霊祭を行ない、辻村に招魂場(今の山国護国神社)を設けた。
最終的に山国隊はその活躍とともに、戦死4人(行方不明1人含)、病死3人という多大な犠牲を出した。また親兵組とともに軍費自弁のためにできた膨大な借金は名主仲間共有の山林を売り払うなどして賄われ、肝心の宮座は維新後間もなく消滅してしまった。しかしこれ以来山国隊は郷土の誇りとされ、山国神社の還幸祭と京都時代祭では山国隊姿の行進を見ることができる。  (wikipedia・山国隊より)]

山国護国神社 – Google Map 画像リンク

カメラ北西方向が山国護国神社参道口です。