マーカーは嵐山遊覧船乗場です。
嵐山遊覧船乗場
[嵐山渡月橋上流一帯を大堰川(おおいがわ)と言います。834年頃、法輪寺道昌が大堰を築造するまでは葛野川と呼ばれていました。
最初のお船遊びは醍醐天皇(898年)頃と言われており、以後度々行われてきました。
昭和3年より車折神社が『三船祭』と称してこれを再現し、現在も営まれるようになりました。
また、夏の風物詩である嵐山の鵜飼は清和天皇(849~880)に宮廷鵜飼が行われたのが始まりで、徳川時代に途絶えましたが昭和25年再興され現在に至っています。 (「嵐山の屋形船<嵐山通船>ホームページ」より)]
桂川
[「山城国風土記」(逸文)や「日本後紀」によると、京都盆地流入以南の桂川は、古くは葛野川(かどの)と呼ばれていた。古代、嵐山周辺の桂川の流れは現代とはやや異なるものだったと考えられている。そのこともあり洪水に苦しめられたようだ。嵯峨や松尾などの桂川流域を支配していた秦氏が、6世紀頃に桂川に堰堤を築いたとされる(葛野大堰)。とくに下嵯峨から松尾にかけて桂川東岸に築かれた堤は罧原堤(ふしはら)と呼ばれる。「秦氏本系帳」によると、これら堰堤完成の際に、それまでの葛野川から大堰川と呼ばれるようになったとある。
その後、嵐山周辺および上流域では大堰川、あるいは大井川(大堰と大井は同義である)、嵐山下流域以南では桂川、あるいは葛河(かつら)と称されるようになった。「土佐日記」では桂川の字を、「日本紀略」では大堰川の字を、「徒然草」では大井川の字を見ることができる。
平安京造営の時、現在の右京区京北町の木材を京都に運搬するなど、桂川の流れは丹波国と山城国、摂津国の木材輸送によく用いられた。17世紀にはいると嵐山の豪商であり政商の角倉了以が桂川を開削し、現在の丹波町与木村から下流の淀や大坂まで通じることになったため、船運が発達した。 (wikipedia・桂川_(淀川水系)より)]
「嵐山通船 | 京都嵐山で屋形船を楽しむ |嵐山通船ホームページ」
「嵐山公園四季報(春)/京都府ホームページ」、「京都市 嵐山渡月橋付近の桜 | 美しい日本、この一枚。」
「都名所図会」・「巻之四 右白虎再刻 嵐山」、「巻之四 右白虎再刻 嵐山解説」、「巻之四 右白虎再刻 嵐山観桜 (嵐山花見)」
嵐山(拡大図)
[嵐山(あらしやま) 法輪寺(はふりんじ) 渡月橋(とげつきやう)
玉葉 又たぐひあらしの山のふもと寺杉の庵に有明の月 俊成]
巻之四 右白虎再刻 嵐山観桜 (嵐山花見)
嵐山観桜 (嵐山花見)(拡大図)
「拾遺都名所図会」・「巻之三 後玄武・右白虎 大堰川の魚釣り (大堰川)」、「巻之三 後玄武・右白虎 大井川 (大堰川)解説」、「巻之三 後玄武・右白虎 桂川の渡り (桂川)」
大堰川の魚釣り (大堰川)(拡大図)
[大堰川(をほゐがは)漁釣躰(ぎよてうのてい)
一口に申もをろか鮎と釈迦 江戸一鉄]
「都林泉名勝図会」・「巻之五 大井川三舩御遊 (大堰川三船御遊)」[図会解釈お勧めサイト]、「巻之五 嵐山」、「巻之五 嵐山解説」、「巻之五 桂川宴舩 (桂川船遊)」
「年中行事大成. 巻之1-4 / 速水春暁斎 画図」・「嵐山賞花図」(2-39)、「其二」(2-40)
「国立国会図書館デジタル化資料 – 浪花百景付都名所」 – 「都名所之内 嵐山三軒家より眺望」
渡月橋下流部の360citiesです。
カメラ南西方向が嵐山遊覧船乗場です。
保津川下り 着船場
保津川下り 着船場の360citiesです。