東海庵

マーカーは東海庵です。

東海庵
[庭園は史跡・名勝に指定。方丈前庭は築地塀で囲まれた一画に白砂を敷き詰め、帚目を付けただけのシンプルな庭。書院南庭は白砂に7個の石を並べた抽象的な庭である。  (wikipedia・妙心寺 -山内塔頭より)]

[戦国時代妙心寺は、発展への大きな転機を迎える時代です。妙心寺の境内地が今日のように広くなるのは、永正6年(1509)のことです。利貞尼という人が、仁和寺領の土地を買い求め、妙心寺に寄進されたからです。
 そこには、やがて七堂伽藍が建てられます。また、塔頭も創建されていきます。とくに、塔頭では、龍泉庵、東海庵に加え、大永3年(1523)に聖澤院、大永5年(1526)には霊雲院が創建されます。これで、四派四本庵による妙心寺の運営体制が確立するのです。四派とは、龍泉派・東海派・霊雲派・聖澤派をいいます。四本庵は龍泉庵・東海庵・霊雲院・聖澤院のことです。  (「妙心寺 : 臨済・黄檗 禅の公式サイト – 臨黄ネット」より)]

[開祖は妙心寺11世悟渓宗頓(ごけいそうとん)(大興心宗禅師、仏徳広通国師)。文明16年(1484)、雪江宗深(せっこうそうしん)より天授院の北、玉鳳院の西の地を付与され、一庵を建立したのをはじまりとする。悟渓遷化ののち、玉浦宗珉(ぎょくほそうみん)が利貞尼(りていに)の援助を得て整備につとめた。さらに慶長4年(1599)に石川掃部一宗(かもんかずむね)が、南化玄興(なんかげんこう)を請じて兄一光の17回忌を営み、庵の中興をなした。現在の建築は江戸時代のものといわれ、とくに書院は江戸時代初期にさかのぼるとされる。狩野元信筆「瀟湘(しょうしょう)八景図」(重要文化財)、「孝明天皇宸翰徽号勅書(しんかんきごうちょくしょ)」(重文)、元時代十六羅漢図(重文)、陳子和(ちんしわ)筆「花鳥(かちょう)図」(重文)を有する。  (「大本山妙心寺 – 塔頭寺院案内 – 東海庵」より)]

東海庵 – Google Map 画像リンク

カメラ西南西方向が東海庵山門です。

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