大覚寺

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    大覚寺
    [大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊不動明王を中心とする五大明王開基嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。
    嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂(こうじゃく)法親王、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。鎌倉時代になると、亀山法皇後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため「嵯峨御所」とも呼ばれた。なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されている。亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。このように、皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されている。
    皇室ゆかりの寺院である大覚寺には、宮廷風の建築や皇室ゆかりの建物を移築したものが多い。伽藍の中軸線上には南から勅使門(唐門)、御影堂、心経殿が建ち、御影堂の東に五大堂、西に宸殿、宸殿の北側に正寝殿が建つ。これらの建物の間は屋根付きの廊下で結ばれている。伽藍の中心部に位置しているのは、本堂にあたる五大堂ではなく、嵯峨天皇ほかの歴代天皇が書写した般若心経を収める心経殿である点が注目される。
    このほか、伽藍東側の大沢池周辺には護摩堂(https://goo.gl/maps/nRoaqav8tBk)、大日堂(https://goo.gl/maps/LquRr7iZLrC2)、聖天堂(https://goo.gl/maps/asVRgZpnFCJ2)、五社明神(https://goo.gl/maps/734Snezc3q12)、閼伽堂(https://goo.gl/maps/JKHaXawpAVv)などの小堂や、昭和42年(1967年)建立の心経宝塔(多宝塔)などが建つ。
    国宝
    ●後宇多天皇宸翰御手印遺告(ごうだてんのう しんかん ごていん ゆいごう) – 「宸翰」は天皇自筆の意。後宇多天皇(法皇)が、大覚寺の興隆を願って書きおいた遺言の自筆草稿で、紙面に天皇の手形が押されている。(後宇多天皇宸翰御手印遺告(巻頭部分)・wikipedia-photo)
    ●後宇多天皇宸翰弘法大師伝 – 真言密教に帰依した後宇多天皇が、自ら正和4年(1315年)に書いた弘法大師伝の自筆本。
    重要文化財
    ●正寝殿(客殿)
    ●宸殿
    勅使門・wikipedia-photo、表門(玄関門)・wikipedia-photo、境内(建物は式台玄関)・wikipedia-photo、心経殿・wikipedia-photo、霊明殿・wikipedia-photo、正寝殿・wikipedia-photo、御影堂・wikipedia-photo、大沢池より心経宝塔を望む・wikipedia-photo  (wikipedia・大覚寺より)]

    [嵯峨天皇の離宮であった大覚寺。今もなお平安朝の雅な佇まいが感じられる大沢池にて、中秋の名月に合わせた「観月の夕べ」が開催される。例年3日間ほど行われる。  (「大覚寺 観月の夕べ」より)]

    旧嵯峨御所 大本山 大覚寺公式ホームページ」 – 「境内のご案内

    京都市右京区 大覚寺大沢池の桜 | 美しい日本、この一枚。」、「大覚寺 桜

    除夜の鐘 常寂光寺・二尊院・大覚寺 | 京都旅屋 ~気象予報士の

    大覚寺 (旧嵯峨御所) – Google Map 画像リンク

    大覚寺、大沢池資料リンク
    都名所図会」・巻之四 右白虎再刻 大覚寺巻之四 右白虎再刻  大覚寺宮 (大覚寺)解説巻之四 右白虎再刻 大沢の池 (大沢池)解説
    拾遺都名所図会」・巻之三 後玄武・右白虎 大覚寺

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    カメラ北方向が、大覚寺参道です。

    カメラ位置は御影堂前で、カメラ南方向に勅使門、カメラ南方向右が村雨の廊下、宸殿、左が安井堂、五大堂です。

    カメラ北西方向に鐘楼があり、鐘楼左方向に勅使門があります。

    カメラ位置は五大堂ぬれ縁(観月台)で、カメラ東方向が大沢池です。

    カメラ北方向が心経宝塔で、カメラ北西方向に聖天堂、カメラ西方向に閼伽堂、カメラ南東方向に護摩堂があります。

    嵯峨天皇
    [嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) – 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月8日) – 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 は神野(かみの)。
    桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。
    兄・平城天皇の即位に伴って皇太弟に立てられる。だが、平城天皇には既に高岳親王阿保親王がいたことから、皇太弟擁立の背景には、父帝・桓武天皇の意向が働いたといわれている。
    このような事情から即位後に甥にあたる高岳親王を皇太子としたが、翌弘仁元年(810年)に平城天皇が復位を試みた「薬子の変」が発生する。この結果、高岳親王は廃されるが、実子を立てる事に気まずさを感じたためか今度はかねてから臣籍降下を望んでいた異母弟の大伴親王(淳和天皇)を強引に皇太弟に立ててしまった(これが承和の変の遠因となる)。
    ともあれ、以後表面上は平穏な治世を送り宮廷の文化が盛んな時期を過ごした。弘仁9年(818年)、弘仁格を発布して死刑を廃止した。中央政界における死刑の廃止は以後保元の乱まで347年間続く。だが、当時は農業生産が極度の不振(『日本後紀』によれば、弘仁8年(817年)より7年連続で干害などの被害を受けたとされている)にあり、その結果として当時財政難は深刻であった。また、最末期には墾田永年私財法の改正などを行って大土地所有の制限を緩和して荒田開発を進め、公営田勅旨田の設置などが行われている。
    皇子皇女多数おり、その生活費も財政圧迫の原因となった。そこで皇族の整理を行い、多数にを賜り臣籍降下させた(源氏の成立)。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。河原左大臣源融は嵯峨天皇の皇子の一人。
    弘仁14年(823年)、財政上の問題を理由(上皇が2人(平城・嵯峨)では財政負担が大きい)に反対する藤原冬嗣の主張を押し切って大伴親王に譲位した。退位後は冷然院・嵯峨院を造営して財政を逼迫させただけでなく、実子正良親王(仁明天皇)が即位すると「皇室の長」として政治に干渉する場面も多くなり、更に淳和上皇や仁明天皇の反対を押し切って自分の外孫でもある淳和上皇の皇子恒貞親王皇太子とするなど、朝廷内で絶大な権力を振るって後に様々な火種を残した。
    漢詩、書をよくし、三筆の一人に数えられる。書作品としては延暦寺蔵の「光定戒牒」(国宝)が知られる。また、華道嵯峨御流の開祖とも伝わっている。
    「嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り」・wikipedia-photo  (wikipedia-嵯峨天皇より)]

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