高山寺(淳和院跡)

マーカーは淳和院跡碑です。

淳和院跡
[淳和院は,淳和天皇(786~840)譲位後の離宮で,即位前からの御所南池院を改称したものである。四町四方規模の景勝地として知られ,詩会が度々行われた。没後は皇后正子内親王(810~79)の御所として仏道修行の場となるが焼失,のち尼寺となり西院とも称された。この石標は淳和院跡を示すものである。
所在地 右京区西院高山寺町(高山寺前)
位置座標 北緯35度00分13.1秒/東経135度43分5647秒(世界測地系)
建立年 1970年
建立者 京都市
寸 法 高114×幅18×奥行18cm
碑 文
[南]
淳和院跡
[西]
昭和四十五年三月 京都市
調 査 2002年2月19日  (「UK010 淳和院跡 – 京都市」より)]

[開基は善西。時期は不詳。本尊は子安地蔵と呼ばれ、安産地蔵として信仰を集めた。足利義政夫人日野富子もここで祈願し、義尚を生んだという。また地名の西院(さい)が賽の河原の賽に通じるため。子供を救う地蔵として信仰は厚い。浄土宗
建立:不詳
拝観しておりません。
*ただし境内は開放ております。
 7:00~17:00頃まで  (「京都観光Navi:高山寺<右京区西院>」より)]

高山寺(賽の河原) | 観光情報 | 京都に乾杯

淳和院跡 石碑 – Google Map 画像リンク」、「高山寺 – Google Map 画像リンク」、「高山寺 鐘楼 – Google Map 画像リンク」、
 
カメラ位置は高山寺山門前で、カメラ北北西方向・高山寺(四条通西大路東入ル)の山門左前に淳和院跡の石碑が建っています。

高山寺本堂前のカメラで、カメラ南南西方向が鐘楼で、鐘楼左が山門です。

カメラ東南東方向・「ジョーシン京都1ばん館」(右京区西院巽町38)の西側の壁に淳和院跡の説明板があります。(「淳和院跡 2008年 – 平安時代好きの京都旅行記(説明内容が記述されています。)」より)]

淳和院
[淳和院(じゅんないん)は、平安京の右京四条二坊(現在の京都府右京区)にあった淳和天皇離宮・後院。後に源氏長者奨学院(大学別曹)とともに別当を務めた。別名・西院(さい/さいいん)
建築された年代は不明であるが、淳和天皇の皇太弟時代の813年(弘仁4年)に実兄の嵯峨天皇が当時南池院と呼ばれていたここに行幸した。淳和天皇の即位後は離宮となり、833年3月22日(天長10年2月28日)にここで甥の正良親王(仁明天皇)への譲位を宣言した。これに先立って名を「淳和院」と改めた。淳和上皇は退位後にはここに皇太后となった正子内親王(淳和太后・嵯峨天皇の皇女)と暮らしていたが、7年後に崩御した。
さらに、承和の変によって上皇の遺児・恒貞親王が皇太子を廃されて淳和院に押し込められると、以後正子内親王・恒貞親王はここで静かに仏道修行に専念した。874年(貞観16年)の火災で一度は焼失するが、再建後に正子内親王はここを、当時朝廷の仏教政策で正式な僧侶になることが出来なかった尼のために、尼寺とした。正子内親王の死後の882年1月4日(元慶5年12月11日)、朝廷は恒貞親王の要望を受けてここに公卿別当を設置して淳和院と嵯峨上皇・檀林皇后・淳和太后(正子内親王)の陵墓、そして嵯峨上皇ゆかりの大覚寺と檀林皇后ゆかりの檀林寺の管理を行わせることとした。これを命じられた公卿を淳和院別当(じゅんないんべっとう)という。
嵯峨上皇は、最初の源氏である嵯峨源氏の祖であることから、次第に淳和院別当の職と源氏が結び付けられて考えられるようになっていった。1140年(保延6年)に村上源氏の源氏長者源雅定が淳和院と奨学院別当を兼務して以後、淳和院別当・奨学院別当は源氏長者を兼ねる慣例が生まれて明治維新まで継承された。当初は村上源氏でも嫡流とされた久我家中院家から源氏長者が出され、稀に人がいないとの理由でその庶流から出される例があった。しかし、1383年(永徳3年/弘和3年)に室町幕府将軍足利義満が源氏長者に任じられ、同時に淳和院と奨学院の別当を兼ねて、以後室町幕府将軍が別当を務めた。ただし、明応の政変以後は再び村上源氏が源氏長者とともに別当を継承するようになった。ただし、応仁の乱以後の京都の混乱に伴ってこの時期には淳和院は廃絶したと考えられており、淳和院別当は名目だけの肩書きであったとされている。そして、徳川家康江戸幕府を開いた際に源氏長者と淳和院・奨学院別当を兼務して以後、以後歴代の将軍に引き継がれることになった。  (wikipedia・淳和院より)]

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