勧修寺

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    勧修寺
    [勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇開山(初代住職)は承俊本尊千手観音である。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。また1872年10月30日(明治5年9月28日)から1881年(明治14年)6月にかけて勧修寺内の一部を勧修小学校として使用されていた。
    『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めたもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤号(しごう)をとって勧修寺と号した。開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、1470年(文明2年)兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏皇室の援助により復興された。
    境内
    山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続き、門跡寺院の格式を表している。境内東側には手前から宸殿、書院、五大堂、本堂などが建つ。境内西側は氷室池を中心とした庭園であり、池に面して楼閣風の観音堂(昭和初期の建立)が建つ。
    ●宸殿-元禄10年(1697年)に明正天皇の旧殿を下賜されたものという。入母屋造、桟瓦葺き。内部は書院造である。明治5年9月勧修小学校が開校時、ここが校舎なった。
    ●書院-貞享3年(1686年)に後西天皇の旧殿を下賜されたものという(明正天皇の旧殿とも)。入母屋造、杮(こけら)葺きで、一の間の違棚は「勧修寺棚」として知られる。障壁画は土佐光起光成父子の作とされるが、狩野派の作とする説もある。書院前の庭にある燈籠は徳川光圀寄進と伝え、「勧修寺型燈籠」と呼ばれる。
    ●本堂-寛文12年(1672年)に霊元天皇の仮内侍所を下賜されたもので、元は近衛家の建物であったという。本尊千手観音立像は醍醐天皇の等身像と伝えるが、現存の像は室町時代頃の作である。
    庭は勧修寺氷池園という池泉庭園である。中心を占める池は氷室の池といい蓮で知られており、平安時代には1月2日にここに張った氷を宮中に献上してその厚さによって五穀豊穣を占ったと言われている。
    勧修寺中門・wikipedia-photo

    宸殿・wikipedia-photo

    本堂・wikipedia-photo

    観音堂・wikipedia-photo

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    勧修寺境内図(「シーズンは終わったが、桜 京都市山科区 勧修寺・・・いつもながら見事な桜たち」より

    勧修寺資料リンク
    拾遺都名所図会」・巻之二 左青龍首 勧修寺巻之二 左青龍首 勧修寺八幡宮
    勧修寺(拡大図)

    年中行事大成. 巻之1-4 / 速水春暁斎 画図」・「賞燕子花」(4-34)

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    カメラ西方向が勧修寺山門です。

    カメラ南方向が中門で、カメラ西方向が大玄関です。

    カメラ西北西方向が宸殿です。

    カメラ位置は書院庭園で、カメラ北東方向・右が宸殿、左が書院になります。

    カメラ西方向が観音堂で、カメラ南東方向が氷室池です。