天智天皇山科陵

マーカーは天智天皇山科陵です。

天智天皇山科陵(御廟野古墳)
[御廟野古墳(ごびょうのこふん)は、京都市山科区に所在する古墳時代終末期の古墳八角墳)である。
本古墳は、被葬者の実在性にも、天皇陵古墳に比定することにも問題がない、つまり、「天智天皇陵」と呼称してもほぼ間違いのない古墳である。このような古墳は非常に稀であり、他には天武天皇持統天皇合葬陵の野口王墓があるだけである。
築造年代は7世紀末~8世紀。古墳の大きさは、上円対辺長約46メートル、下方辺長約70メートル、高さ8メートルである。
八角墳は7世紀の中葉になると、大王墓のみが営むようになる。現在知られているかぎりでは、奈良県桜井市の段ノ塚古墳(現舒明天皇陵)、奈良県高市郡明日香村の野口王墓(現天武・持統陵)、一般に文武天皇陵と考えられている明日香村の中尾山古墳、それに御廟野古墳などが八角形平面の墳丘を持っている。日本では初めて大王に固有の型式の陵墓が出現したといえる。 これらのほかに、奈良県高市郡高取町束明神古墳草壁皇子の真弓山稜か)、方形墳の上に八角形の墳丘を造っている可能性のある明日香村の岩屋山古墳斉明天皇陵か)などが八角形墳の可能性を指摘されている。
天智天皇山科陵 拝所・wikipedia-photo

ウィキメディアコモンズには、御廟野古墳の画像またはその他のファイルが含まれています。  (wikipedia・御廟野古墳より)]

伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [編画] ; [秋里湘夕] [撰]」・「天智天皇廟陵」(1-19)、「天智天皇御廟説明・6 行目より」(1-20)

[天智天皇廟陵 即御廟野こと
辺りを御廟野といふ。街道より三町斗り左へ入る。森に小祠鳥居沓落し石有。水鏡に云。十二月三日帝御馬にのりて、山科へおはして林の中に入てうせ給ひぬ。いづくにおはしますと云事をしらず。只御沓の落たりしを陵にはこめ奉りし也。此御廟は日本十陵の第一にて年暮荷前に使あり。延喜式諸陵寮に近江大津宮御宇天智天皇在山城国宇治郡兆域東西十四町南北十四町陵戸六烟。  (「伊勢参宮名所図会」より)]

天智天皇 山科陵 – Google Map 画像リンク

カメラ北東方向が天智天皇山科陵参道です。

天智天皇山科陵拝所前のカメラです。

天智天皇
[天智天皇(てんちてんのう / てんじてんのう、推古34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は第38代天皇和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語。(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代淡海三船によって撰進され、「最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けられたと言われる。
天智天皇は、舒明天皇の第二皇子。母は皇極天皇重祚して斉明天皇)。皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王。ただし皇后との間に皇子女はない。
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行なった。また有間皇子など、有力な勢力に対しては種々の手段を用いて一掃した。
百済が660年に新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、百済復興を図った。百済救援を指揮するために筑紫に滞在したが、斉明天皇7年7月24日(661年8月24日)斉明天皇が崩御した。
その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制したが、天智天皇2年7月20日(663年8月28日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、同6年3月19日(667年4月17日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、翌同7年1月3日(668年2月20日)、漸く即位した。同年2月23日(668年4月10日)には、同母弟・大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。しかし、同9年11月16日(671年1月2日)に第一皇子・大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、同10年10月17日(671年11月23日)に大海人皇子が皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。
なお、斉明天皇崩御(661年)後に即日中大兄皇子は称制して暦が分かりにくくなっているが、日本書紀では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、崩御翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。
白村江の戦以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。即位後(670年)には、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。
「天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかった」と日本書紀は伝える。しかし、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱において大海人皇子が大友皇子に勝利して即位し天武天皇となる。以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。
称徳天皇崩御後に、天智の孫・白壁王(志貴皇子の子)が即位して光仁天皇となり、以降は天智系統が続く。
大海人皇子から額田王を奪ったという話も有名だが、事実ではないという説もあり真偽ははっきりしない。  (wikipedia・天智天皇より)] 

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