牛尾山法嚴寺(牛尾観音)

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牛尾山法嚴寺(牛尾観音)
[牛尾山法厳寺は京都市の再東端の音羽山の山中に在り、垂仁天皇のご指示により大国ノ不遅が山頂に祠を建立されたのが創り。当寺は光仁天皇宝亀初年に賢心法師(延鎮)により開基された。
本尊十一面千手観音菩薩は天智天皇の御親作仏として知られ秘仏になっている。御本尊は家畜や農作物に霊験が有ると言われ、農家の方々の信仰を集めている。
寺院名  法厳寺
住 所 〒 607 – 8069 京都市山科区音羽南谷 1
電 話 075 – 595 – 3317 (来訪の時は電話して下さい) 寺務連絡所=音羽中芝町32
電 話 075 – 581 – 1586
交 通  京阪バス…「小山」下車、徒歩にて音羽川沿い上り坂約 1 時間  (「京の通称寺 通称寺の会公式ホームページ 牛尾観音 法厳寺 – Wix.com」より)]

[清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正 17 年( 1520 年)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館)『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦 17 年( 798 年)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次の通りである。
宝亀 9 年( 778 年)、大和国興福寺の僧で子島寺で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢 200 歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残して、去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。
その 2 年後の宝亀 11 年( 780 年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂( 758 年 – 811 年)は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、自身が建立した清水寺に平定参拝をしたという。その後、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。延暦 17 年( 798 年)、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。  (wikipedia・清水寺より)]

牛尾山ハイキング道(拡大図・「山科の里山と清流を楽しむ・牛尾山ハイキング道」)

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牛尾山法厳寺 (法厳寺)(拡大図)

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カメラ南南東方向が牛尾山 桜の馬場(観音下)です。

牛尾山 桜の馬場(観音下)参道のストリートビューです。

牛尾山法嚴寺(牛尾観音)境内口のカメラです。

牛尾山法嚴寺(牛尾観音)境内のカメラで、カメラ北方向が本堂、カメラ北西方向が大杉堂、カメラ南方向に手水舎があります。

カメラ北北西方向が本堂で、カメラ東方向が庫裏で、庫裏右に護摩堂、護摩堂前に鐘楼があります。