マーカーは逢坂山関址です。
逢坂山関址
[逢坂関(おうさかのせき、あふさかのせき)は、山城国と近江国の国境となっていた関所。相坂関や合坂関、会坂関などとも書く。
東海道と東山道(後の中山道)の2本が逢坂関を越えるため、交通の要となる重要な関であった。その重要性は、平安時代中期(810年)以後には、三関の一つとなっていた事からも見てとれる。なお、残り二関は不破関と鈴鹿関であり、平安前期までは逢坂関ではなく愛発関が三関の一つであった。
近世に道が掘り下げられた事などから、関のあった場所は現在では定かでない。しかし、逢坂2丁目の長安寺付近にあった関寺と逢坂関を関連付ける記述が更級日記や石山寺縁起に見られる事などから同寺の付近にあったと見られる。なお、これとは別の滋賀県大津市大谷町の国道1号線沿いの逢坂山検問所(京阪京津線大谷駅の東)脇には「逢坂山関址」という碑が建てられている。
逢坂山関址の記念碑(2023年9月)・wikipedia-photo
(wikipedia・逢坂関より)]
[京阪電鉄大谷駅の東約100m、国道1号沿いに「逢坂山関跡」の記念碑が立っています。
逢坂越は、都と東国・北国を結ぶ東海道・東山道・北陸道の3つの主要道路が集中する交通の要衝でした。
古くから貴族や武将をはじめ、文人墨客(ぶんじんぼっきゃく)がこの道を通過し、この関所や峠を題材にした作品が万葉集や古今集に多く残っています。中でも「これやこのゆくもかえるもわかれては知るも知らぬも逢坂の関」という蝉丸(せみまる)の歌は、百人一首にも採りあげられて広く親しまれています。また、大津八景「関寺(せきでら)の晩鐘(ばんしょう)」「逢坂(おうさか)の暮雪(ぼせつ)」では、厳しかった逢坂越での美しい景観がうかがえます。
実際に関所があったのは、記念碑から少し大津寄りで関寺の付近であったのではないかといわれています。
平成21年春、逢坂の関記念公園が完成し、現代に旧東海道を旅する人々の憩いの場となっています。 (「逢坂山関址 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてが ..」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第十 土山ヨリ京マデ」(コマ番号22/26)
絵図右方向にスクロールすると「おふ坂」と記述され、その下に「昔関所跡伝 町屋一家」と記述されています。

「伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [編画] ; [秋里湘夕] [撰] 」・「逢坂山」(1巻 – 28)、「逢坂山旧蹟解説」(1巻 – 26・左ページ左端)
[逢坂山 一名手向山
手向といひて 往昔旅行人かならず 山の嶺にて絹或はいろいろの紙をぬさ(幣)として 四方へちらし道祖神へ手向し也 其手向は此山にかぎるとはあらね共都より出 まづさしかゝる嶺なれば 国此所にて手向せ
し故に 手向山の名もあり 故に嶺を今タフゲといふは則たむけの転後なり 契沖説後撰集 恋四
名にしおはば あふ坂山の さねかずら
人にしられで くるよしもがな
あふさか山の歌 数多あれども略す (「伊勢参宮名所図会(1-14)」より)]
「逢坂駒迎」(1巻 – 31)
[逢坂駒迎
拾遺 あふさかの 関の清水に かげ見えて
今やひくらん 望月の駒 貫之
仝 逢坂の せきの岩かど ふみならし
山たち出る きりはらの駒 大山田高遠
公事根源氏
けふは信濃の勅旨 牧の馬奉る六十疋 勅旨の牧延喜式にみへずいかゞ也
もとは十五日八月にて侍りしかども 朱雀院の御国忌にあたるに
とつて 十六日になさる 天皇南殿に出御なりて 御馬御覧ず
上郷御馬の解文 国々より貢る送状也 を奏す事
果て公郷以下次第に 御馬たまはる馬のさしつるを取りて
御前にすゝみ一拝す 取のこしの御馬を引分け 野使とて
次持をもて 院東宮などしかるべき所へまいる 下略 (「伊勢参宮名所図会(1-16)」より)]
「逢坂山関址 – Google Map 画像リンク」
逢坂山関址碑と常夜燈前のカメラです。