マーカーは北白川の石仏 (子安観音)です。
北白川の石仏 (子安観音)
[西町の子安観音
西町、今出川通と志賀越道の交差点(旧吉田村との村境で、白川口と呼ばれる)に安置されている、高さ2メートル程度の石仏(観世音菩薩)。『拾遺都名所圖會』にも「北白河の石佛は希代の大像にして…」と、図版入りで紹介されている。江戸時代末期に発生した北白川での大火後に、村の中ほどから現在の場所に移設された。その際に両腕が失われており、首も一度落ちたものを接いだものである(そのためか、「首切れ地蔵」との異名もある。)。さらに1996年(平成8年)にはトラックの衝突により、またしても首が落ちるという災厄に見舞われている[(33)北白川の子安観世音(京都市左京区)]。背部が石塊のまま残されており、鎌倉時代の作と言われているほか、豊臣秀吉にまつわる伝説もあり、太閤地蔵とも呼ばれる[この石仏が夜な夜なに動き出すとの噂を聞きつけた秀吉が聚楽第に移設してみたところ、「白河へ帰りたい」と鳴動したので、仕方なく元の場所に安置し直した、との話。地元での言い伝えの他、『花洛名勝図会』、『山州名跡志』などで記述が見られる。]。
西町の子安観音・wikipedia-photo
(wikipedia・北白川 – 子安観音」より)]
志賀越道
[志賀越道(しがごえみち)は、京の七口である荒神口から、近江国に至る街道。志賀の山越とも。室町時代には今路道(今道越)とも呼ばれ、近世の文献には山中越の呼称も見られる。志賀越道は荒神口から鴨川を渡り、そこから北東に進み、いったん京都大学の本部構内で分断されるが、今出川通・白川通と交差し、北白川仕伏町にて昭和初期に整備された御蔭通(府道30号)と合流する。 (wikipedia・志賀越道より)]
白川石
[花崗岩そのものである白川石も白川の特産品であり、その品質の評価も高かったとされ、京都の石と言えば白川石、とも言われ、鎌倉時代には三大名石のひとつにも数えられた。『都名所図会』にも「北白川の里人は石工を業(なりわい)として、常に山に入て石を切出し…」との記述が見られ、『東北歴覧之記』では「農業の暇、石工を事とし、入山して石を採り、市中で売る。俗に白川石と称す」とされている。白川灯籠や手水鉢(ちょうずばち)などの加工品も名物であった。だが、大正時代以降、石造の衰退、採石容易な花崗岩の枯渇や京都市の条例による切り出しの禁止という要因により、北白川での石の切り出しは次第に行われなくなった。 (wikipedia・北白川 – 白川石より)]
北白川の石仏資料リンク
「都名所図会」・巻之三 左青龍再刻 北白川、巻之三 左青龍再刻 北白川解説
北白川(拡大図)
[北白川(きたしらかは)
北白川の里人は石工を業として、常に山に入て石を切出し、灯籠手水鉢其外さまざまのものを作りて売也。物理編に土精を石とす。石は気の核なり。人の筋絡より方を生ずるごとくなりとぞ。]
「拾遺都名所図会」・巻之二 左青龍尾 北白川の石仏
北白川の石仏(拡大図)
カメラ西方向が北白川の石仏 (子安観音)です。