マーカーは寂光寺です。
寂光寺
[寂光寺(じゃっこうじ)は京都府京都市左京区にある、顕本法華宗の本山。山号は妙泉山。宏師寮法縁。
日淵は安土宗論に参加するが、敗者となった。その後、日淵は弟子の教育に力を注ぎ、名僧日海を輩出し、法華宗の発展に大きく寄与することとなった。日海は寺内塔頭の本因坊に住み、後に本因坊算砂と号した。日海は碁技に優れ、当時敵手無く、織田信長から名人と称揚された。日海以降、本因坊の名称は碁界家元の地位をもち、襲名継承される様になった。なお、本因坊4世・道策の時に寂光寺から江戸に移った。
歴史
●1578年(天正6年)日淵は室町出水に久遠院を建立する。
●1579年(天正7年)安土宗論に久遠院から日淵が臨む。
●1590年(天正18年)豊臣秀吉の命により、寺町二条に移転する。
●1591年(天正19年)妙泉寺の寺内に移転合併し、寂光寺と改称する。
●1708年(宝永5年)宝永の大火により焼失する。
●1708年(宝永5年)現在の地に移転し、再建する。
仁王門通東大路西入南側・wikipedia-photo
「第一世本因坊算砂旧跡、京都市左京区仁王門通東大路西入南側寂光寺前」・wikipedia-photo
(wikipedia・寂光寺より)]
第一世本因坊算砂旧跡
[囲碁の家元本因坊算砂(1558~1623)は,幼少より日蓮宗寂光寺に入寺した。織田信長(1534~1582)・豊臣秀吉(1536~1598)に仕え,のち江戸幕府の碁所に補任されるまで,寂光寺の住持をつとめた。この石標は本因坊算砂ゆかりの寂光寺を示すものである。
なお,寂光寺は算砂が住持をつとめたころは寺町通夷川上る東側にあったが,のち宝永5年(1708)の宝永大火で焼失し現在地に移転している。旧地附近の上京区寺町通夷川上る東側歩道には,算砂を顕彰するために,寺町会(商店街振興会)により2008年に石造の碁盤が設置された。
所在地 左京区仁王門通東大路西入南側(寂光寺前)
位置座標 北緯35度00分43.0秒/東経135度46分38.7秒(世界測地系)
建立年 1923年
建立者 三宅安兵衛遺志
寸 法 高152×幅22×奥行21cm
碑 文
[北]
碁道
第一世本因坊算砂之旧跡
名人
[東]
本因坊第参百年記念
[南]
京都
大正十二年夏 三宅安兵衛建之
調 査 2002年2月21日 (「SA030 第一世本因坊算砂旧跡 – 京都市」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – [洛中絵図・洛外絵図]. [2]」(コマ番号3/5・絵図四つ切左上、久遠院前町左に現在の地に移転前の寂光寺が描かれています。)
カメラ南南東方向が寂光寺山門で、山門前右に第一世本因坊算砂旧跡碑があります。
カメラ東北東方向に石造の碁盤が設置されています。(Google Maps)