白河院跡

マーカーは白河院跡碑です。

白河院跡
[白河院は,九世紀半ば摂政藤原良房(804~72)が平安京外のこの地に営んだ別業で,代々藤氏長者に伝えられたが,のち白河天皇(1053~1129)へ献上され法勝寺となった。藤原道長(966~1027)・頼通(992~1074)期には天皇や女院の行幸・御幸が度々みられ桜の名所として知られる。この石標は白河院跡を示すものである。
所在地 左京区岡崎法勝寺町
位置座標 北緯35度00分47.7秒/東経135度47分16.2秒(世界測地系)
建立年 1939年
建立者 京都市教育会
寸 法 高122×幅18×奥行18cm
碑 文
[南]
此附近 白河院址
[西]
昭和十四年三月建之 京都市教育会
調 査 2002年2月19日  (「SA013 白河院跡 – 京都市」より)]

カメラ北北東方向に白河院碑があります。

白河天皇
[白河天皇(しらかわ てんのう、天喜元年6月19日(1053年7月7日) – 大治4年7月7日(1129年7月24日))は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) – 応徳3年11月26日(1087年1月5日))。を貞仁(さだひと)という。藤原摂関家と外戚関係の薄い後三条天皇の第一皇子として生まれ、母は藤原氏閑院流出身で中納言藤原公成の娘、春宮大夫・藤原能信の養女である女御藤原茂子(?-1062)。同母妹に篤子内親王堀河天皇中宮)。
幼い時は父子ともに冷遇されたが、治暦4年(1068年)、父帝即位とともに親王宣下を受け貞仁親王となる。翌延久元年(1069年)立太子、同4年(1072年)、20歳で即位。関白を置いたが、延久5年(1073年)の後三条上皇の病没後も、父同様に親政を目指し、荘園整理などに力を入れ摂関家の権勢を弱めることに努める。
後三条院とその生母である陽明門院は、白河天皇の異母弟・実仁親王、更にその弟の輔仁親王に皇位を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を皇太弟と定めた。白河天皇はこれに反発したが、応徳2年(1085年)に実仁親王は薨去した。これにより応徳3年(1086年)11月、白河天皇は輔仁親王ではなく、8歳のわが子の善仁親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位した。太上天皇となった白河上皇は、幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる院政が出現した。以後も引き続き摂政関白は置かれたが、その実態は次第に名目上の存在に近いものとなってゆく。
ただし、白河上皇は当初から強い権力を有していたわけではなかった。天皇在位中からの摂関であった藤原師実とは協調を図っており、師実も争うことを好まなかったこともあって、実際の政策決定過程において親政期及び院政初期には摂関政治と大きな違いはなかった(師実は摂政もしくは大殿として、白河上皇の院庁の人事や御所の造営にまで深く関与していた)。また、堀河天皇が成人すると、上皇の政治介入に反発する関白藤原師通とともに親政を図って一時成功していた時期もあったが、幼帝の後見という目的を果たしたことや後述のように出家したこともあって白河法皇もこれを許容していた。
それが大きく転換したのは、藤原師通の急逝による摂関家内部の混乱と、それに続く堀河天皇の崩御に伴うその皇子で自らの孫である第74代鳥羽天皇の即位であったと考えられている。摂関政治の機能停止に伴って父院である白河法皇が摂関に替わる天皇の補佐機能を行うようになり、更に堀河天皇の崩御に伴う幼帝(鳥羽天皇)の再出現と、政治的に未熟な若い摂政(藤原忠実)の登場によって、結果的に権力が集中したと考えられている。
政治的権限を掌握した白河法皇は、受領階級や武家出身の院近臣を用いて専制的な政治を行った。武士は、院の警護役として創設した北面武士になどにあてた。特に康和4年(1102年)と保安元年(1120年)の2度にわたって藤原忠実の職権を停止したことは摂関の権威の低下を内外に見せることになった。更に実仁親王立太子を巡る教訓から、堀河・鳥羽・崇徳天皇の異母兄弟に対しては親王宣下も臣籍降下も認めずに出家させて、皇位継承権を剥奪した(法親王制度の創設は彼らへの慰藉の側面もある。なお、崇徳の異母弟である近衛天皇の誕生は白河院の没後である)。
熱心に仏教を信じ、嘉保3年(1096年)には皇女の病没を機に出家し法名を融観とし、法皇となった。また法勝寺等の多くの寺院や仏像をつくらせたが、その経済力は受領のものを活用した。
堀河天皇崩御後は、自らの孫である第74代鳥羽天皇、更に曾孫の第75代崇徳天皇と3代にわたって幼主を擁し、43年間にわたり院政を敷いた。天皇の王権を超越した政治権力を行使するこうした「天皇家の家督」のことを、後世「治天の君」と呼ぶようになる。大治4年7月7日(1129年7月24日)77歳で崩御。
女性関係
中宮賢子との仲は非常に睦まじく、賢子の生前の間で記録に残っている妻妾は、女御藤原道子・典侍藤原経子程度であり数は必ずしも多くない。しかし、賢子の死後は身分を問わず非常に多数の女性と関係を持ち、加えて関係を持った女性を次々と寵臣に与えたことから、これが崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという噂が当時から広く信じられる原因ともなった。
また男色好みでもあり、近臣として権勢を誇った藤原宗通、あるいは北面武士の藤原盛重・平為俊はいずれも寵童の出だった。  (wikipedia・白河天皇より)]

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