マーカーは盛岡藩南部家京屋敷跡です。
南部利剛
[南部 利剛(なんぶ としひさ)は、陸奥国盛岡藩13代藩主・南部利済の三男として盛岡にて誕生。七戸藩主・南部信誉の養嗣子となるが、病により本家へ戻る。
嘉永2年(1849年)9月26日、実兄である先代・利義の隠居より家督を相続した。利義の隠居は、父・利済との対立のためであった。同年10月15日、12代将軍・徳川家慶に御目見する。同年12月16日、従四位下・美濃守に叙任する。
利剛の家督相続に対しては反対が根強く、嘉永6年(1853年)の第2次三閉伊一揆では利義の復帰および帰国が一揆側の要求の一つであった。この要求は退けられ、その後も藩主は利剛のままであった。安政元年(1854年)2月23日、幕府は利済に対し、江戸下屋敷での蟄居を命じる。また利義に対し、藩政への介入を禁止している。父が幕府の命により江戸で蟄居を命じられて以降に親政を開始したが、藩政再建に関して家老で母方の従弟の楢山佐渡と、同じく家老で極端な改革を進める東政図(中務)が対立するなど、藩政は迷走する。
安政2年(1855年)の安政大地震に遭遇して負傷する。
慶応4年(1868年)、夏に九条道孝率いる新政府軍の進駐を受けて、これに対し饗応するが、布告には恭順しなかった。同年8月、楢山佐渡が京都から帰国し、また秋田藩が新政府側へ恭順すると、これを攻撃するために奥羽越列藩同盟の盟約に従って出兵した。同年9月、新政府軍に降伏を申し入れ、同年10月9日に降伏を認められた。同年12月7日に新政府から隠居と領地没収を命じられたが、長男の利恭は陸奥国白石13万石に減転封となった。また、楢山佐渡ら3人が切腹となった。 (wikipedia・南部利剛より)]
南部利恭
[14代藩主・南部利剛の長男として誕生。幼名は彦太郎、初名は剛毅。
文久3年(1863年)9月、幕府に丈夫届を提出する。明治元年(1868年)10月9日、戊辰戦争に際し、南部信民と共に明治政府軍に降伏を申し入れる。同年12月2日、父・利剛と共に東京に護送されて、金地院で謹慎する。同年12月17日、利剛が明治政府から隠居を命じられたため家督を相続した。同年12月24日、戊辰戦争で明治政府と交戦して敗北したため、陸奥国白石13万石に減転封された。
明治2年(1869年)6月18日、版籍奉還により白石藩知事に就任する。同年6月28日、従五位下・甲斐守に叙任する。同年7月22日、盛岡藩知事に転任する。盛岡復帰のため、政府に70万両の献金を約束した。しかし、大半は調達できず、政府は廃藩の圧力をかけて、利恭は辞表を提出するにいたった。明治3年(1870年)7月、政府は辞表を受理し、盛岡県を設置した。 (wikipedia・南部利恭より)]
「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(成立西暦・1868年)」(絵図中央右・鴨川右、阿州屋敷左上に南部と記述されています。)
カメラ位置は京都丸太町川端郵便局前で、カメラ南西方向が盛岡藩南部家京屋敷跡になるのではないかと思います。