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京都国立博物館
「Google アートプロジェクト」 – 「京都国立博物館」
[1888年(明治21年)、宮内省に臨時全国宝物取調局(局長九鬼隆一)が設置され、日本各地の社寺等の文化財(当時の用語では「宝物」)の調査が行われた。その結果、京都・奈良には特に文化財が集中しており、それらを収蔵保管する施設の整備が急務とされた。こうして当時の日本政府は京都と奈良に国立の博物館を設置することとした。当時、東京には東京国立博物館の前身にあたる博物館がすでに設置されていたが(1872年創立)、1889年(明治22年)5月、宮内大臣通達により、東京の博物館を「帝国博物館」と改め、同時に「帝国京都博物館」と「帝国奈良博物館」の官制が定められた。京都国立博物館の前身である帝国京都博物館が機関として発足したのはこの時である。初代の館長は森本後凋(こうちょう)という人物であったが、同人の在任中は博物館開館以前の準備期間であり、実質的な初代館長は1894年(明治27年)2月に就任した山高信離(のぶあきら)である。1890年(明治23年)には帝国京都博物館の建設地が東山七条の現在地に定められた。この土地は方広寺(大仏)旧境内にあたり、1890年当時は、東半が民有地、西半は七条御料地(旧恭明宮)であった。恭明宮とは、明治初年の神仏分離後、それまで御所の御黒戸に安置されていた仏像や歴代天皇の位牌を安置していた施設である(1870年設置、1876年廃止)。
博物館の本館は片山東熊の設計になる煉瓦造平屋建て、フレンチルネサンス様式の建物で、1892(明治25年)年6月に建築工事に着工、1895年(明治28年)10月に竣工した。諸準備が整い、博物館が開館したのは1897年(明治30年)5月のことである。設計者の片山は赤坂離宮のほか、奈良国立博物館本館や東京国立博物館表慶館の設計にも携わった、宮廷建築家である。本館は当初3階建てで計画されたが、1891年(明治24年)に発生した濃尾地震でレンガ造2階建ての建物が多く倒壊したことを踏まえ、平屋建てに変更された。
展示館は宮内省内匠寮技師片山東熊設計の旧・帝国京都博物館本館である明治古都館(旧称・本館)と、2013年に竣工した平成知新館がある。明治古都館は特別展示館として利用され、平成知新館は平常展示館として利用される。
所蔵品には国宝27件、重要文化財181件(2006年3月現在)が含まれる。また建物自体も、旧本館(明治古都館)・表門(正門)・札売場及び袖塀が1969年(昭和44年)、「旧帝国京都博物館」として国の重要文化財に指定されており、技術資料参考館(旧恩賜京都博物館陳列品収納用倉庫)が2008年(平成20年)、国の登録有形文化財に登録されている。
以前は平成知新館の位置に1965年に竣工し翌年開館した京都大学名誉教授森田慶一設計の「新館」(平常展示館)があった。この「新館」は解体され、平常展示機能を持つ平成知新館(谷口吉生設計、着工2009年1月31日、竣工2013年8月)が建設された。同じ谷口吉生設計の南門ミュージアムショップは2009年に先行オープンした。
旧平常展示館の解体と平成知新館の建設に伴い、平常展示は長く休止していたが、平成知新館の竣工後の展示室の乾燥を経た2014年9月13日に再開された(特別展はその間も継続されていた)。
●明治古都館(旧・本館) – (片山東熊設計、1895年竣工、重要文化財)
●平成知新館 – (谷口吉生設計、2013年竣工)
●正門 – (片山東熊設計、1895年竣工、重要文化財)
●南門 – (谷口吉生設計、2001年竣工)
●茶室「堪庵」
●ロダン作『考える人』 – 正門と旧本館(明治古都館)を結ぶ軸線上に設置されている。1950年に個人所蔵家から寄託を受け、1956年に国有となったものである。同時に寄託されたロダンの『アダム』像は、京都市役所前設置を経て京都市美術館に保管されている。
正門・wikipedia-photo

明治古都館(旧・本館)・wikipedia-photo
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前庭の馬町十三重塔・wikipedia-photo
本館前のロダン作『考える人』・wikipedia-photo
コレクション
公式キャラクターとして、自館所蔵作品である尾形光琳の『竹虎図』をモチーフにした「トラりん(虎形琳ノ丞)」が存在する。2015年10月10日に策定、当時の館長であった佐々木丞平により命名され、翌年の「ミュージアム キャラクター アワード 2016」(丹青社主催)で1位を獲得した。
「トラりん」のモチーフとなった尾形光琳筆『竹虎図』。・wikipedia-photo
絹本著色山越阿弥陀図・wikipedia-photo
絹本著色山水屏風 六曲屏風(東寺旧蔵)・wikipedia-photo

絹本著色釈迦金棺出現図・wikipedia-photo
絹本著色十二天像(国宝) – 十二天のうち水天・wikipedia-photo
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病草紙のうち「眼病の男」(国宝)・wikipedia-photo
天橋立図 雪舟筆(国宝)・wikipedia-photo

蓮池水禽図 俵屋宗達筆(国宝)・wikipedia-photo
四季花鳥図屏風 伝雪舟筆(重要文化財)・wikipedia-photo
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[弟子の作が大半を占める伝雪舟(1420~1506?)筆の花鳥図屏風絵群の中にあって、唯一、雪舟自筆とみなされている作品である。両隻とも松・梅の巨木によって画面全体が支えられ、その周囲に四季の草花や禽鳥類が配されているが、異様な屈折をみせる樹木と鳥たちのアクの強い描写により、画面には独特の緊張感、重苦しさがもたらされている。おそらく、手本にされた中国・明代ころの花鳥図の影響であろう。 なお本図は、文明15年(1483)石見の益田兼堯の孫、宗兼の襲禄祝いに制作されたものと伝えるが、確証を得ない。 (「四季花鳥図屏風 – 京都国立博物館 館蔵品データベース」より。)]
傳足利尊氏騎馬武者像(守屋家本)(重要文化財)・wikipedia-photo
阿國歌舞伎圖屏風(重要文化財)・wikipedia-photo

京都国立博物館収蔵『阿國歌舞伎圖屏風』六曲一隻、紙本金地著色(出雲阿国を描いた最古の屏風絵)。舞台上を見ると、刀を肩にかけたかぶき者、柱のそばに坐す茶屋のかか、頬かむりをした道化役の猿若がおり、これは阿国歌舞伎の代表的演目である「茶屋遊び」が演じられていることを示す。出雲の阿国が北野社の能舞台を代用して「歌舞伎踊り」を始めたのは慶長8年(1603)、本図はその舞台を描いたもので、制作もそれからさほど降らぬ頃と考えられる。囃座も三味線などなく、笛、小鼓、大鼓、太鼓ばかりで、いかにも初期的様相を示す。図中に印象的に配された松の表現が、たとえば妙蓮寺障壁画中のそれと通有する性格を有しており、長谷川派による風俗画の一例とする有力な説がある。
伊藤若冲《果蔬涅槃図》18世紀、江戸時代(重要文化財)・wikipedia-photo
ウィキメディアコモンズには、京都国立博物館の画像またはその他のファイルが含まれています。 (wikipedia・京都国立博物館より)]
馬町十三重塔
[京都国立博物館の正面前庭に佐藤継信・忠信の塚であると伝えられた二つの十三重塔がある。この塔は、継信が屋島で討死、京都で忠信が自刃してから百年以上も後に建てられた。昭和15年(1940)に解体修理が行われ、現在は京都国立博物館の前庭に十三重塔として復元移築されている。東山区馬町通東大路東入北側、70M程はいったところに佐藤継信・忠信之塚、正六位政養之碑の案内石柱がある。 (「佐藤継信・佐藤忠信塔 – 大佗坊の在目在口」より)]
継信忠信塔資料リンク
「都名所図会」・巻之三 左青龍再刻 継信忠信塔 (継信忠信の石塔婆)、巻之三 左青龍再刻 継信忠信の石塔婆 解説
「花洛名勝図会」・東山之部 七 継信忠信塔、東山之部 七 継信忠信塔解説
継信忠信の石塔婆(拡大図)
[継信忠信塔(つぎのぶたゞのぶのたふ)
佐藤氏の兄弟は忠肝義膽の人にして、漢の紀信、宋の天祥にもおとらざるの英臣也。美名後世にかがやきて、武士たらん人は慕ひ貴むべき也。
此石塔婆、昔は十三重と見たり。星霜かさなりて次第に崩れ落、今は土台の廻りに囲あり。]
「流転 旧馬町十三重塔 京都国立博物館 伝佐藤兄弟塔 – daitakuji 大澤寺 …」、「馬町十三重石塔(佐藤継信 忠信) – 平家物語・義経伝説の史跡を」
「京都国立博物館 – Google Map 画像リンク」、「茶室 堪庵 – Google Map 画像リンク」
カメラ北方向が京都国立博物館南門入口です。
カメラ東方向が、京都国立博物館・正門(出口)です。
カメラ初期設定方向右が本館、左が平成知新館
京都国立博物館噴水のあるエリアのカメラで、カメラ西方向噴水手前にロダン作『考える人』が設置されています。
茶室「堪庵」前のカメラです。
カメラ位置は大和大路通りで、カメラ東南東方向に二つの馬町十三重塔が設置されています。
カメラ北西方向・小路角に佐藤継信・忠信塚碑があります。(Google マップ)