マーカーは松代藩真田家京屋敷跡です。
真田幸民
[真田 幸民(さなだ ゆきもと)は、信濃松代藩の第10代(最後)の藩主。日本の華族、爵位は伯爵。血統上は伊達政宗の男系子孫である。
伊予宇和島藩主・伊達宗城の長男。幼名は保麿。先代藩主・真田幸教の養嗣子となる。慶応2年(1866年)3月9日、養父幸教の隠居により、家督を相続した。同年4月25日、従五位下信濃守に叙任した。慶応4年(1868年)1月19日、旧幕府から甲府城代を命じられる。同年1月25日、辞退する。戊辰戦争に際しては、2月頃から新政府側として行動する。同年3月3日、新政府から甲府城代を命じられる。また、北越戦争、会津戦争へ出兵し、重要な戦功を挙げた。これにより新政府から賞典禄3万石を加増された。
明治2年(1869年)1月、上洛する。同年6月、版籍奉還により知藩事となった。明治3年(1870年)、松代騒動が勃発し、一揆勢の説諭にあたる。明治4年(1871年)、廃藩置県で免官となる。 (wikipedia・真田幸民より)]
「国際日本文化研究センター – 洛中洛外町々小名大成京細見絵図(元治元・1864年)」(絵図四つ切右下・鴨川右、松原通と五条通の間、水口下に松代と記述されています。)
「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(1868年)」(絵図四つ切右下・鴨川右、松原通と五条通の間、六波羅寺右下に松代と記述されています。)
カメラ位置は京都市立開晴小中学校敷地北東端で、カメラ南西方向が松代藩真田家京屋敷跡になると思われます。