マーカーは水口藩加藤家京屋敷跡です。
加藤明実
[加藤 明実(かとう あきざね)は、嘉永元年(1848年)3月1日、第9代藩主・加藤明邦の七男として江戸で生まれる。文久3年(1863年)12月29日に兄で第10代藩主の明軌の養子となる。元治2年(1865年)3月15日、将軍徳川家茂に拝謁する。同年12月28日、従五位下能登守に叙任する。慶応2年(1866年)2月29日に養父明軌の隠居により、家督を継いで第11代藩主となった。慶応3年3月28日、泉涌寺の警備を命じられる。
第2次長州征伐では京都警備を務めた。慶応4年(1868年)1月からの戊辰戦争では官軍に与した。同年1月27日、新政府から近江国内の川越藩領及び三上藩領の管理を命じられる。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で水口藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で知藩事職を免官されて東京へ移った。 (wikipedia・加藤明実より)]
「国際日本文化研究センター – 洛中洛外町々小名大成京細見絵図(元治元・1864年)」(絵図四つ切右下・松原通、六道の下に水口と記述されています。また、絵図中央右下・四条通/東洞院通、右下に水口(烏丸京屋敷)と記述されています。)
「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(1868年)」(絵図四つ切右下・安井御門跡(安井金比羅宮)、松原通下に市橋ヤシキが描かれています。また、絵図中央右下・東洞院四条通下ル東にも水口ヤシキが描かれています。)
カメラ位置は松原通六道珍皇寺(小野篁邸跡)入口の東でカメラ南東方向が水口藩加藤家京屋敷跡になるのではないかと思います。