法住寺殿蹟

マーカーは法住寺殿蹟碑です。

法住寺殿蹟
[法住寺は,永延2(988)年右大臣藤原為光が娘*子(忯子・花山天皇女御)の死後,その邸宅を寺とした。長元5(1032)年に焼失し,のち再興の記事はない。さらに1世紀あまり後,後白河法皇(1127~92)が,出家してここを院御所として住し法住寺殿と呼ばれた。寿永2(1183)年,木曾義仲(1154~84)の襲撃により殿舎が焼失し,以後再興されなかった。現存の蓮華王院(三十三間堂)は,長寛元(1163)年,平清盛(1118~81)が造立した法住寺殿の堂宇の一つ。この石標は法住寺殿の跡を示すものである。
所在地 東山区三十三間堂廻り(法住寺前)
位置座標 北緯34度59分14.9秒/東経135度46分20.0秒(世界測地系)
建立年 1929年
建立者 京都史蹟会
寸 法 高126×幅20×奥行18cm
碑 文
[西]
法住寺殿蹟
[東]
昭和四年三月
[南]
東東大路 西大和大路
四至
南泉涌寺道 北七条通
[北]
京都史蹟会建
調 査 2002年2月12日  (「HI009 法住寺殿蹟 – 京都市」より)]

三十三間堂内にも法住寺殿址碑(HI010 法住寺殿址 – 京都市)があり、後白河上皇院政庁「法住寺殿」阯碑案内板が設置されています。
[後白河上皇院政庁 「法住寺殿」阯碑
 法住寺殿は、保元3年(1158)8月、その皇子・二条天皇に譲位して上皇となった後白河院が約30年にわたり院政(上皇が天皇に代って政権運営をする特異な政治形態)を行った政庁です。上皇になると天皇の住う御所とは別の所に専用の”院御所”を造営するのが通例で、先例の白河鳥羽の両帝に続き、その度に大規模な土木工事が行なわれました。後白河院は譲位直後に御所の造営に着手、東山の麓から西は鴨川河岸まで、南北は八条坊門小路(現・東海道線南・大谷高校辺)から六条大路(現・六条通り)に及ぶ広大な地域で、その地名を取り「法住寺殿」と名付けたのでした。構内は政治的な施設の「北殿」と”常の御所”と呼ぶ住居に三十三間堂をはじめとする宗教的堂塔が集中した「南殿」に分かれ、東山を背にする丘陵に地中から湧き出たような大建築が甍を並べたといいます。
 永暦2年(1161)4月、月明かりの夜に、上皇はここに移り以後20年住まいとします。しかし、賑わいをみせた院の御所も、寿永2年(1183)11月、対立するようになった木曽義仲 の夜襲にあい焼失しました。800年の昔に変らぬ姿でこの場所に伝承されてきた三十三間堂は、その時代をしのぶ稀有の物証といえるでしょう。]

カメラ東方向に法住寺殿蹟碑があります。