膳所藩本多家京都屋敷跡

マーカーは膳所藩本多家京都屋敷跡です。

膳所藩
[慶安4年(1651年)、以前に膳所を領していた本多俊次が7万石で膳所に再び入部し、以後は本多家の領地として固定することとなった。そして俊次から第3代藩主・本多康慶の頃にかけて瀬田川の治水工事、新田開発、窮民に対する福祉政策や火事対策、京都警備などの諸改革が行なわれて藩政は安定化した。しかし江戸時代中期頃から藩財政が窮乏化したため、第9代藩主・本多康匡は中根善右衛門を登用して財政改革を主とした藩政改革を断行したが、この改革が領民に御用銀を賦課するというものであったため、天明元年(1781年)に改革に反対する百姓一揆や打ちこわし、強訴が起こり、同年末にも打ちこわしが発生した。おまけに藩主の康匡が年末に死去したため、改革は完全な失敗に終わった。
そして、第10代藩主・本多康完の時代には有名な「御為筋一件」が起こった。前述したように膳所藩では、江戸時代中期頃から財政が窮乏化して衰退していたが、それを助長するように2人の奸臣が現われた。家老の本多内匠と鈴木時敬が、2人は藩主が短命かつ若年であることをよいことに、領民に対して悪政を敷いて専横を極めた。康匡は2人を排除して実権を取り戻し、中根を登用して改革を行なったが、領民に負担をかける財政改革だったため、領民が百姓一揆を起こして失敗したうえ、その一揆が起こった同年末には康匡が死去して若年の康完が跡を継いだ。すると失脚していた本多内匠と鈴木時敬は康完が若年であるのをよいことに復職を果たし、またも専横を極めた。しかも藩財政が窮乏化している中で奢侈を奨励したため、領民はもちろん、家臣団の内部でも内匠と時敬の排除を求める声が高まった。幕府にもこの騒動が聞こえるようになると、幕府の裁定により本多修理(内匠と時敬の対立者で、倹約を主とした藩政改革を唱えていた)を家老として藩政改革を行なうように命じ、2人の奸臣をはじめとする一派は処刑、永牢、追放の処分を下された。こうして、騒動はようやく鎮まり、その後は修理のもとで藩政改革が行なわれ、文化5年(1808年)には藩校・遵義堂が創設された。
幕末期、最後の藩主である本多康穣の代に、藩内では尊王攘夷派と佐幕派が藩の主導権をめぐって争った。将軍・徳川家茂の膳所宿泊予定が中止になるほどであったが、藩内部でやがて佐幕派が力を盛り返し、阿閉権之丞ら尊王派11名を処刑した。また尊王派の先鋒の川瀬太宰も幕吏新撰組に捕えられ殺される。川瀬太宰は筆頭家老戸田資慶の叔父でもあった。その後、その川瀬が藩主にも説いた尊王論が盛り返し、明治元年(1868年)の戊辰戦争では新政府側に与して桑名藩攻めに出兵した。  (wikipedia・膳所藩より)]

[京都における大名火消制度は、元禄3(1600)年に畿内近国で勤める京都火消御番として開始された。その後2度の制度改革を経たのち、禁裏御所方火消を担っていた亀山藩淀藩、膳所藩、大和郡山藩の4藩が、享保7(1722)年に京都火消を兼ねた京都火消役となり、その制度が確立する。これ以降は4藩が月番で勤め、後に4藩の藩主が江戸詰の役職についた場合の補充として高槻藩篠山藩が追加された。京都火消役は2藩ずつが組み合わされており、他の2藩主が帰国するのをまって在邑の2藩主が江戸へ参勤した。そして、天明大火(1788年1月30日 – 1788年3月9日)時に藩主自らが出馬したのは亀山藩と篠山藩であり、大和郡山藩、淀藩、膳所藩、高槻藩、園部藩は家臣を出動させている。  (「京都天明大火における大名火消の実態 – 大邑潤三・塚本章宏・北原糸子」より)]

いまは忘れられた “ゼゼウラ” は、町の歴史を伝えてくる – 京都 …

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863] )」(絵図中央右方向・祇園社左上に本多ヤシキと記述され、火の見櫓が描かれています。)

国際日本文化研究センター – [大成京細見繪圖 : 洛中洛外町々小名](慶應4・1868年)」(絵図四つ切右下・祇園社左上に膳所ヤシキが描かれています。)

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(明治元年・1868年)」(絵図四つ切右下・祇園社左上に膳所、その下道にゼヽウラと記述されています。)

カメラ北東方向右道が  カメラ方向が膳所藩本多家京都屋敷跡になります。