マーカーは飫肥藩伊東家京屋敷跡です。
伊東祐相
[伊東 祐相(いとう すけとも)は、第11代藩主・伊東祐民の長男として江戸に生まれる。父・祐民は文化9年6月29日、祐相の誕生に先立って死去しており、祐民の弟で祐相の叔父・祐丕が家督を継いでいた。文化11年(1814年)、祐丕が嗣子無くして死去したため、3歳で家督を継いだ。
藩政においては殖産興業政策、軍制改革、海防のための砲台建設、養蚕業の奨励や運輸業の改革、飫肥藩教学の確立などに努め、多くの成功を収めた。後にこの教学により郷校・明教堂が建設され、阿万豊蔵、落合双石など多くの人材を輩出している。明治期に入ると薩摩藩に従って新政府側に与し、戊辰戦争では二条城と甲府城の守備を務めた。
明治2年(1869年)の版籍奉還により知藩事となったが、同年7月23日に長男・祐帰に家督を譲って隠居した。 (wikipedia・伊東祐相より)]
「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(1868年)」(絵図四つ切右下・松原通右端、清水坂下に飫肥と記述されています。)
カメラ位置は清水坂交差点で、カメラ東北東方向日體寺、金剛寺(八坂庚申堂)手前までが飫肥藩伊東家京屋敷跡になるのではないかと思います。