マーカーは桂大橋です。
桂大橋
[京都市中から山陰方面へ向かうには桂川を渡らねばならないが、明治になるまで本格的な橋が架けられた形跡はない。平安時代初期の延暦18年(799)に、楓(桂)と佐比の二つの渡を設ける勅が発せられており、古くから官設の渡があった。
鎌倉幕府滅亡後、京都を守る後醍醐天皇方に対して、細川氏の一隊が大江山(おおいや ま)の峠(老ノ坂)から押し寄せたが、守備隊の一部が桂川を打ち渡って迎え撃ったと 『太平記巻一四』にあり、桂川は歩いて渡れたように思われる。
江戸時代後期に編まれた『都名所図会巻四』には「舟渡しあり、丹波道なり」とあり、ここには渡し場があった。しかし『都名所図会拾遺巻三』には「大井川の徒渉」として人々が桂川を歩いて渡っている絵があり、季節によって水位の低いときには歩いて渡れたのであろう。
明治の初め近隣の村によって桂土橋が架けられ、1人12文の橋銭を取って維持されていた。山陰街道の桂橋が近代橋となったのは明治22年のことである。流心に近いところに、長さ約22mの木鉄混用のハウトラスが6連用いられた。この橋は明治38年に架け換えられたが、このときは主橋梁部に木鉄混用の弓形トラスが使われた。
桂橋は昭和3年に名実ともに近代橋になった。中央部にゲルバー式の鋼桁が用いられ、端部は鉄筋コンクリートのT型梁が架けられた。親柱は3mを越える立派なもので桂離宮に近接していることもあって日本調のデザインが選ばれた。
戦後の交通量の増加にともなって山陰街道(国道9号)は新しいルートが作られ、桂川には西大橋(昭和39年完成)が架けられた。一方、桂大橋も昭和58年に架け換えられている。通常の連続桁橋であるが、旧橋の親柱を復元し、高欄は簡素ながら日本調の美し いデザインになっている。 (「桂大橋(かつらおおはし」より)]
[現在の呼び方では、「八条通」が桂川を渡る橋が「桂大橋」ということになるのですが、その昔、まだここには橋が架かっていない時代には、ちょうどこの場所で、舟による「渡し」が行われていたのでした。
山陰や丹波の方から京都に入るこの道は「山陰街道」と呼ばれ、桂川の西側は、「下桂今戸」という宿場町として栄えていたということです。特に江戸時代には、参勤交代の大名行列もこの渡し舟を利用し、毎年莫大な舟賃を地元に落としていきました。渡しの付近には、「万屋甚兵衛」という人が創業した「万甚」をはじめ、他にも「柏平」など三軒ほどの旅籠屋が立ち並び、往還の旅行者を相手に繁盛していたということです。
江戸時代も終わり近くの弘化3年(1846年)には、地元の関係者が出資して、渡し舟の安全航行のために石造りの大きな「常夜燈」を建てました。この常夜燈は、現在も桂大橋の西詰に残っていて、往時を偲ばせます(写真)。
高さ3mもある石燈籠は、「川の灯台」とも言うべき存在として、夜の渡し舟からも確かな目印となったことでしょう。 (「2008年7月13日 桂橋際の「万甚さん」(2)」より)]
桂川資料リンク
「都名所図会」・「巻之四 右白虎再刻 桂川解説」、「巻之四 右白虎再刻 桂川解説翻刻文」 (桂川渡の十町ばかり北で、梅津の南に上野橋がある。)
「拾遺都名所図会」・「巻之三 後玄武・右白虎 桂川の渡り (桂川)」
桂川の渡り (桂川)(拡大図)
[案内なくして羇旅の近道を行は好ざる事也。雪解の旦、夕立の後細谷川(ほそたにがは)のながれも、水増りて渉るに足を取る。殊更嵯峨(さが)大井川(をゝゐがは)は石荒くして、浅く見ゆる所も足を入れば転び倒れて溺るる事多し。これぞ遠慮なき時は近憂あらんの誡なるべし]
[図会は 桂川の渡しではなく、渡し以外の桂川を渡渉で渡る様子です。桂川の支流・有栖川の上流域の北嵯峨細谷には直指庵があり、細谷川(菖蒲谷隧道)は直指庵の横を流れ大沢池に流入している。図会に記述する細谷川は現在の有栖川ではないかと思われ、左ページ中程の橋は有栖川に架かる上野橋のようで、描かれている場所は有栖川の合流点下流ではないかと思われる。]
カメラ位置は桂大橋西詰で、カメラ東北東方向が桂大橋で、カメラ北方向に常夜燈が移設設置されています。