伊藤若冲作品(wikipedia・伊藤若冲より。)
●果蔬涅槃図[かそ ねはんず]:紙本墨画、1幅。釈迦涅槃図に見立てて果蔬(果物と青物[蔬、野菜])を描く。一見すると戯画的な手法だが、濃淡の墨を巧みに使い分け、筋目描きや墨のにじみ・カスレを駆使する多種多様な技法で、もの言わぬ野菜たちを本当に悲しんでいるように描き出し、涅槃図本来の宗教性を失っていない。従来は若冲の母が亡くなった安永8年(1779年)頃の制作とされたが、印章の欠損具合や、寛政期に下る「菜蟲譜」や「蔬菜図押絵貼屏風」と類似のモチーフや描法が認められる事から、寛政6年(1794年)以降の制作とする説が有力になりつつある。京都国立博物館蔵。(重要文化財)・wikipedia-photo
●白象群獣図[びゃくぞう ぐんじゅうず]:紙本墨画淡彩。現在は額装。正対する白象を中央に配し、周囲にさまざまな種類の獣を描く。製作過程が極めて手が込んでおり、まず画面に薄墨で9mm間隔に方眼を作り、その上から全体に薄く胡粉を塗る。そうして出来た碁盤目を淡い灰色で彩り、更に灰色の正方形すべてに4分の一よりやや大きい正方形を、先程より濃い墨で必ず方眼の上辺と左辺に接するように塗り分ける。その方眼の数は、縦136本横79本の計10774個。ここまでが下地作りで、その上に動物たちを淡彩を用い隈取りを施しながらグラデーションで描くという特異な技法から成る。この描き方は「枡目描き」と呼ばれ、若冲は西陣織の下絵から着想を得、織物の質感を絵画で表現しようとしたと考えられる。50代後半から70歳代後半の作とされるが、「千画絶筆」印の使用から70歳代前半頃の作品だと想定できる。個人蔵(静岡県立美術館寄託)。
白象群獣図(「静岡県立美術館【若冲と京の画家たち】 – 主な出品作品」より。)
●樹花鳥獣図屏風[じゅかちょうじゅうず びょうぶ]:紙本着色、六曲一双。無款。右隻では正面を向く白象を中央に配し、周囲に獅子・豹・猪・栗鼠・麒麟・牛・兎・鹿・手長猿等さまざまな種類の獣と樹花を、左隻では鳳凰を始めとし、鶏・鵞鳥・雉・錦鶏・孔雀・七面鳥・鸚鵡・鴛鴦・白鷺等、多種多様な鳥と樹花を描く。伝来は不明で、元は右隻の《群獣図》のみ確認されていたが、平成5年(1993年)に現左隻の《鳥図》が発見され、一双の《樹花鳥獣図屏風》として静岡県立美術館に所蔵されるようになった。表装も対になるように改められたが、右隻133.0×357.0cm、左隻137.5×364.0cmと左右で大きさが異なっている。「白象群獣図」と同様の技法だが、比較すると本作品はいい加減な箇所が目立つ。桝目の描き方が乱雑となって、四角というより円に近くなり、濃い彩色の部分もやはり円く、左上ではなく中央に塗ってある所も多い。更に下地であるはずの正方形の形が、絵のモチーフの彩色に干渉してしまっている。しかし、動植物自体のフォルムは若冲らしさを止めている事から、若冲自作ではなく、若冲の下絵を元に弟子たちが描いた工房作で、その完成度から何らかの染織品の下絵として制作されたと考えられる。寛政2年(1790年)頃、若冲70歳代中頃の作。静岡県立美術館蔵。
樹花鳥獣図屏風(左)・wikipedia-photo
樹花鳥獣図屏風(右)・wikipedia-photo
●象鯨図屏風(象と鯨図屏風)[ぞうとくじらず びょうぶ]:左隻に潮を吹く鯨の黒く巨大な背、右隻に不思議な造形の白象を描く、大胆な構図の作品。若冲に特有の筋目描きによる。平成20年(2008年)8月、北陸地方の旧家から発見された水墨画。落款に「米斗翁八十二歳画」とあり、晩年にあたる寛政7年(1795年)前後の作とされる。ただし、昭和3年(1928年)に紛失した同名の一図とは別物。滋賀県、MIHO MUSEUM蔵。
象と鯨図屏風(左)・wikipedia-photo
象と鯨図屏風(右)・wikipedia-photo