マーカーは供御瀬跡です。
供御瀬
[南郷洗堰が建設されるまで、大戸川と瀬田川の合流部付近では中州が形成され、瀬田川の流水を妨げ琵琶湖の水位上昇の原因となった。かつては大戸川と瀬田川が直角に合流する形を取り、形成された中州群は「黒津八島(くろづのやしま)」と呼ばれ、瀬田川で唯一歩いて渡れる地点として知られていた。平安時代に天皇や皇族に食膳に供するための氷魚を捕るための網代が設けられていたので、「供御瀬(くごのせ)」とも呼ばれていた。洪水を防ぐための浚渫工事によって黒津八島は消えていき、さらには瀬田川に直角から緩やかな角度で合流させるため終戦直後から水路の新設が行われ、かつてより400 m下流で瀬田川と合流するようになった。 (wikipedia・大戸川より)]
瀬田川洗堰
[明治の洗堰(旧瀬田川洗堰 通称:南郷洗堰)
1896年(明治29年)にまとまった淀川改修計画により1900年(明治33年)春、瀬田川改修工事が着工した。これは、瀬田の唐橋から南郷・黒津までの5.5km区間にわたる川底を掘り下げるほか川幅を101mに広げ、さらに黒津付近(供御瀬の直前)に川中へ突き出した大日山をダイナマイトで爆破し54mを河川敷に組み入れるというもので、これにより瀬田川の疎通能力は毎秒50m3から毎秒200m3に拡大した。
洗堰本体は1902年(明治35年)に着工し1905年(明治38年)3月、煉瓦と石で造られた疎通能力は毎秒400m3の堰が工費625,000円で完成した。構造は厚さ4 – 6 尺の無筋コンクリートの基礎版の上に表面をレンガ張りにした無筋コンクリートの橋脚31基と川の両岸に橋台を設けたもの。32ある水通しの幅は12尺。
水量の調節はこの水通しに8寸角で長さ14尺の角材を挿入することで行い、平時は15ないしは17段挿入していた。全閉操作は24時間、全開操作は48時間要し、台風時のような異常出水では間に合わない欠点を持っていた。
南郷洗堰は2002年に土木学会選奨土木遺産に選ばれた。
現在の洗堰
1953年(昭和28年)の台風13号の反省に策定された淀川水系改修計画により、天ヶ瀬ダム建設の一環として従来の洗堰から下流100 mの地点に設けられることとなった。1957年(昭和32年)10月1日に着工。堰を近代化し機能を強化するべく、建設省(現・国土交通省)近畿地方建設局がコンクリート製の可動堰を建設し1961年(昭和36年)3月、疎通能力600m3の堰が竣工した。なお、堰の開閉は電動に変更された。
1992年(平成4年)、バイパス水路が新設され、疎通能力が800m3に向上した。 (wikipedia・瀬田川洗堰より)]
「伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [編画] ; [秋里湘夕] [撰] 」・「櫻谷蛍」(1巻 – 50)
[北は瀬田の橋、南は供御瀬までが蛍の名所と記述されています。]
[江州の石山寺の渓谷 (試みの谷という)は 蛍が多くて長さも普通のものの倍はあり、そこを蛍谷と呼んでいる。北は勢多の橋まで 2 町ばかり、南は供江瀬(供御瀬 (クゴノセ))まで 25 町、その間に高さ 10 丈ばかりのところを火焔のように群がり飛ぶ。あるいは数百と塊をなし、いつも芒種(ポウシュ、陰暦 6 月 5 日頃)の後 5 日 から夏至の後 5 日まで、およそ 15 日が盛んである。風雨なくしかもそれほど快晴でない夜はいよいよ多い。ただし、北は橋を限度とし、東は川を限度とし、これをこえるといない。また時節をすぎると全く姿を見せなくなる。その蛍は下つて山州 (ヤマシロ)宇治川に至つて約 3 里 ばかり、ここでは夏至から小暑(陰暦 7 月 7 日 頃)の間が盛んである。けれども石山の盛んなのには及ばない。(和漢三才図会 寺島良安著作) (「文化昆虫ホタル∼古典の中から∼」より)]
「年中行事大成. 巻之1-4 / 速水春暁斎 画図」・「石山蛍狩之図」(5-26)、「蛍狩解説-1・右ページ中程より」(5-27)、「蛍狩解説-2」(5-28)
カメラ位置は大日山西端、大津市黒津3丁目1地先の夕照の道で、カメラ北西方向が川中へ突き出した大日山をダイナマイトで爆破した地点で、カメラ南西方向が供御瀬跡になると思います。