マーカーは外堀緑地です。
外堀
[天正八年(一五八〇)筒井順慶の縄張りに始まる郡山城築城は、天正一三年(一五八五)に入部した豊臣秀長の時代に本格的に進められた。
文禄四年(一五九五)豊臣秀吉の五奉行の一人である増田長盛が二〇万石で入部し文禄五年から外堀の普請を開始した。秀長のころにはすべての家臣が城下に侍屋敷を構える時代ではなかったが、この頃には約一万の家臣が城下に集中し、武家屋敷も多くなり、城下町で商工業が著しく発達するなど、外堀で城下全体を囲む必要が生じてきたのである。安土桃山時代の城下町にはこうした惣構の傾向が強い。外堀は、東側では秋篠川の流路を東に向けて佐保川と直結させ(奈良口の川違え)、旧流路を堀に利用した。南・西側は丘陵の断崖や溜池を巧みに利用し、北側は谷地に沿う堀をめぐらした。総延長は五〇町一三間(約 5.5 キロ)に及んだ。外堀の大部分は素掘りで、内堀や中堀のように石垣を積むことはなかった。掘削した土を堀の内側に盛り上げて土塁(土居)をつくった。土塁の高さは、一間半(二.七メートル)から高いところでは二間半(四.五メートル)もあった。外堀の完成で郡山城の規模が定まり、防御施設が整ったのである。
こうして近世郡山城の基盤が完成したのである。内堀、中堀、外堀が同心円状にめぐり、城郭中心部は内堀と中堀で囲み、その北・西・南側に武家屋敷地を配し、東側に町割りを実施した城下町配し、城下全体を外堀で囲んだのである。また、城外へ通じる主要街道と外堀の交点には九条町大門、鍛冶町大門、高田町大門、柳町大門の四門を設け出入りを監視するなど城下の維持と安定のための策を採ったのである。
近現代に至り外堀と土塁も徐々に失われてきたが、今日の郡山の街並みや道路網・水路網もこの近世の骨格を維持している。また、二一世紀の都市計画にも外堀などの歴史的遺産が活かされつつある。 (「外堀碑(画像リンク)」より)]
「大和郡山城外濠跡 – Google Map 画像リンク」「外堀緑地 – Google Map 画像リンク」
カメラ西方向が外堀緑地北門です。
外堀碑前のカメラです。
外堀緑地内のカメラです。