マーカーは大和郡山城(三の丸)遺構調査ヶ所です。
新庁舎建設事業に伴う発掘調査(郡山城三の丸) 現地説明会資料
[はじめに
今回の発掘調査は、大和郡山市新庁舎建設事業に伴うものです。平成 30 年度に、地下埋設物が少ない箇所において試掘調査を実施し、遺構が良好に残っている範囲で本調査を実施することになりました。調査は、平成 31 年 2 月 25 日から開始し、現在も継続中です。
調査地は、郡山城三の丸の五軒屋敷に該当します。今回の調査は、武家屋敷の敷地内の構造を知ることを目的として実施しました。
調査の結果、現在の地表面から約 1m 下で、16 世紀末~ 19 世紀の遺構を確認しました。
調査の概要
検出した遺構は、出土遺物と層序から 3 時期に大別できます。
I 期
I 期の遺構は、調査区の東半部において検出した礎石建物と石列、土器埋設土坑です。遺構を覆う盛土層には、16 世紀末 ~17 世紀中頃の遺物が含まれていました。
礎石建物は調査区の南東に位置します。規模は、東西約 2.5m 以上、南北約 10m で、さらに東へ広がる可能性があります。礎石のなかには五輪塔の地輪や石臼などの転用石材も含まれています。
石列は、礎石建物の南端に位置します。南北方向 2 列、 東西方向 2 列を検出しました。礎石建物とは、主軸が異なるので別時期の遺構であると考えられます。
土器埋設土坑は、調査区北東隅に 3 基確認しました。いずれも 16 世紀末~17 世紀初頭の瓦質土器を埋設しています。
II 期
II 期の主な遺構は、調査区中央を縦断する南北溝 2 条です。溝の埋土からは、17 世紀中頃 ~18 世紀中頃の遺物が出土しました。南北に直線的に延びることから、屋敷の区画に伴う施設の可能性が考えられます。
III 期
III 期の主な遺構は、調査区の西半分を占める土坑群と東側で確認した竹杭列です。
土坑 1 は、平面形が隅丸方形で、南辺には、排水施設と考えられる暗渠が設けられています。暗渠は瓦を並べて蓋をしています。
土坑 2 は、土坑 1 の南に位置します。南に向かって段差を伴い深くなる構造で、南北の高低差は約 0.6m あります。
Ⅲ期の遺構は、出土遺物から、19 世紀初頭に埋没したと考えられます。土坑 1 は、池と考えられ、暗渠によって、土坑 2 と繋がっています。形状などから、苑池ではなく貯水とそれに伴う排水施設だと考えられ
ます。また、遺物が大量に出土することから、遺構本来の役割が失われたあと、土坑 1、土坑 2 は廃棄土坑として再利用されたようです。
竹杭列は、調査区東半分で確認しました。II 期の南北溝と同様、屋敷の区画に伴う施設である可能性や遮蔽施設の可能性が考えられます。
まとめ
今回の調査で、三の丸の一画における 16 世紀末~19 世紀の遺構の変遷を明らかにできました。
三の丸は、江戸時代後期の絵図等で侍町や五軒屋敷として記されていますが、五軒屋敷がいつ成立したかはよくわかっていません。また、五軒屋敷の実態がわかるような考古学的な成果は少なく、敷地内の様相や機能については不明な点が多くあります。特に 16 世紀末 ~17 世紀にかけては城内全体でみても資料が少ないため、今回の調査で、遺構や遺物が確認できたことは、郡山城の築城過程を考えるうえで重要な成果といえます。また、時代ごとに異なる、三の丸の機能の変遷の一端を明らかにできたことも、今回の調査の成果のひとつといえます。 (「新庁舎建設事業に伴う発掘調査(郡山城三の丸)現地説明会資料(現地説明会 令和元年5月11日付)」より)]
カメラ南方向が大和郡山市庁舎で、庁舎手前が大和郡山城(三の丸)遺構調査ヶ所です。