マーカーは富本銭出土地案内板です。
富本銭(ふほんせん)出土地 – 平城京右京八条一坊十三・十四坪 –
[ここ九条公園(九条スポーツセンター)は、奈良時代の都である平城京の右京八条十三坪、十四坪という区画に位置しています。1985(昭和 60 )年、造成工事を行われた発掘調査で、条坊(じょうぼう)以降(道路、側溝)や掘立柱建物、井戸、土坑などがたくさん検出されました。出土遺物には、坩堝(るつぼ)や砥石、金鉗(かなはし)、金属製品の未成品や漆容器、漆紙文書などといった鋳造、漆工に関するものが多く、奈良時代の前半には官営の工房が営まれていたと考えられています。
板材を縦に 2 段に組んだ一辺 1 メートル、深さ 3.5 メートルの井戸の底から和同開珎(わどうかいちん)、萬年通寶(まんねんつうほう)、神功開寶、ガラス玉、斎串(いぐし)、銅製人形、横櫛などとともに「富本」と書かれた銅銭が 1 枚出土しました。直径 2.48 センチ、厚さ 0.15 センチ、重さ 4.16 グラム。上下に「富」と「本」という字を、その左右に七曜紋(しちようもん)と 7 つの点を配する。「富本」とは国、民を富ませる本(もと)の意味。大和郡山の地から初めて発掘調査で富本銭の出土が確認されたのです。(富本銭(複製品)・wikipedia-photo)
この発見をうけて富本銭の考古学的研究は大きく進展しました。 1990 年には藤原京の遺構から出土が相次ぎ、奈良時代よりさかのぼる時期に作られた銭貨である可能性が高まりました。そしてついに 1999 年、明日香村の飛鳥池遺跡から多量の富本銭の鋳型とともに出土し、木簡などの出土遺物から 7 世紀後半につくられたわが国最古の貨幣であることが判明したのです。
長らく学会の定説では、日本で一番古い貨幣といえば和銅元( 708 )年につくられた和同開珎でした。しかし、大和郡山から出土した小さな一枚の銅銭がきっかけとなって詳しい研究が始まり、とうとう定説をくつがえす歴史的な発見へとつながったのです。
2013 年 10 月 大和郡山市教育委員会 (「富本銭出土地案内板(画像リンク)」より)]
富本銭
[富本銭は、1694年(元禄7年)発行の『和漢古今寳泉図鑑』に「富夲銭」として登場し、1798年(寛政10年)に刊行された古銭目録『和漢古今泉貨鑑』に、「富本七星銭」として図柄付きで載っており、昔から貨幣研究家の間では知られていた。『和漢古今泉貨鑑』を刊行した朽木昌綱は富本銭を「古寳銭」と分類し、「夲」は「本」字の代わりに使用されたものであると指摘している。富本銭を含む朽木昌綱の収集品は、幕末に鉄砲の対価としてドイツ人に売却されたとされていたが、1999年に大英博物館に収蔵されているのが発見された。
1889年(明治22年)、収集家、今井風山は『風山軒泉話』のなかで、「その作りが古朴で和同銭と違わない。銅質が古和同と同じである。」と古代のものと推定されることを指摘している。
その後、戦後の遺跡調査の進展もあって、富本銭の出土が相次ぐことになる。
●1969年(昭和44年)に平城京跡から、1985年(昭和60年)には平城京跡の井戸の底からも出土した。
●1991年(平成3年)と1993年(平成5年)には、さらに古い藤原京跡からも相次いで出土された。
これにより、今まで最も古い貨幣とされてきた708年発行の和同開珎よりも古い可能性がでてきた。
●1995年(平成7年)には、群馬県藤岡市の上栗須遺跡から1枚出土している。
●1999年(平成11年)1月、飛鳥京跡の飛鳥池工房遺跡から33点もの富本銭が発掘された。それ以前には5枚しか発掘されていなかった。
33点のうち、「富本」の字を確認できるのが6点、「富」のみ確認できるのが6点、「本」のみ確認できるのが5点で、残りは小断片である。完成に近いものの周囲には、鋳型や鋳棹、溶銅が流れ込む道筋である湯道や、鋳造時に銭の周囲にはみ出した溶銅である鋳張りなどが残っており、仕上げ段階に至っていないことから、不良品として廃棄されたものと考えられる。
富本銭が発掘された土層から、700年以前に建立された寺の瓦や、687年を示す「丁亥年」と書かれた木簡が出土していること、『日本書紀』の683年(天武天皇12年)の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」との記述があることなどから、発掘に当たった奈良国立文化財研究所は、同年1月19日に、和同開珎よりも古く、683年に鋳造されたものである可能性が極めて高いと発表し、これにより「最古の貨幣発見」「歴史教科書の書き換え必至か」などと大々的に報道がなされた。
その後、4月以降の追加調査では、さらに不良品やカス、鋳型、溶銅などが発見された。溶銅の量から、実に9000枚以上が鋳造されたと推定され、本格的な鋳造がされていたことが明らかになった。アンチモンの割合などが初期の和同開珎とほぼ同じことから、和同開珎のモデルになったと考えられる。
2008年(平成20年)3月には、2007年(平成19年)11月に藤原宮跡から地鎮具として出土した平瓶(ひらか)の中に水晶と共に富本銭9枚が詰められていたと発表された。これらのうち、少なくとも8枚が従来のものと異なる書体「冨夲」(「冨」字の「一」も省略)であることが確認され、飛鳥池遺跡発掘のものより厚手であった。このうち4枚は富本銭の特徴とされてきたアンチモンの含有が確認されなかった。 (wikipedia・富本銭より)]
カメラ北東方向に富本銭出土地案内板があります。