番条環濠集落

マーカーは番条環濠集落・熊野神社です。

番条環濠集落
[奈良盆地一帯は、奈良時代に行われた条里制の区画が今も残ります。盆地北部に位置する番条も水田は東西南北に区切られ、付近の道路も東西南北に走ります。
番条集落の直ぐ東は下つ道(しもつみち)です。藤原京内裏(だいり)の西側から正確に真っ直ぐ北に伸び、平城京の羅城門、そして朱雀大路に繋がっていた大路です。平城京建設前に整備されました。
下つ道を 1 km 北に行くと、古事記を語った稗田阿礼(ひえだのあれ)を祀る売太神社(めたじんじゃ)を中心とした稗田の集落があります。現在、稗田の北側で下つ道は途切れていますが、その北 1.5 km が羅城門跡です。
番条も稗田も、その隣の若槻も、集落の回りを濠(ほり)で囲った環濠集落(かんごうしゅうらく)です。これらの集落は、室町中期から戦国時代にかけて自衛の為に濠を巡らしたのです。
室町時代は、貴族や寺院・寺社が荘園と呼ばれる土地を支配して、そこから税を取る権利を持っていました。ところが、実際に荘園に住んで荘園を管理する人々が徐々に実力を蓄えて支配する二重支配の構造ができてきました。そんな実力者の一人が番条を治める番条氏でした。
鎌倉時代から室町時代にかけて、鉄製農具が普及しました。堤防を築いて河川を改修し、平野が開墾されました。番条は、大和川の上流にあたる佐保川に東から菩提仙川が流れ込む地点にあたり、日本最大の商業貿易都市・と大和北部を結ぶ河川交通の港として築かれたものと推測されます。
交通の要衝は争奪の対象となります。 1459 年に番条氏は破れ、筒井氏の配下に入ります。筒井氏の拠点・筒井城と番条は佐保川を境に接しています。
1559 年(永禄 2 年)から大和国に侵攻した松永久秀が没落した後、筒井氏の統領・順慶は、大和国統治の象徴として郡山に城を築きました。
筒井順慶の死の翌 1585 年(天正 13 年)、豊臣秀吉の弟・秀長が郡山城に入城、郡山城の拡張と城下町の建設を開始しました。番条から城下町まで 3 km の距離ですから、河川交通の利便を考えてのことに違いありません。同時に奈良町(ならまち:現奈良市の旧市街のあたり)での商売を禁じたため、郡山は大和国の政治・経済の中心となりました。
その後城主はたびたび変わりましたが、江戸中期 1724 年に甲府から入城した柳沢家のもとで明治維新を迎えました。柳沢家は五代将軍綱吉側用人(そば ようにん)を勤めた柳沢吉保の一族です。
豊臣政権による兵農分離政策「刀狩り」以降、各集落では自治組織が残りました。それが当屋制度(とうやせいど)です。当屋と呼ばれる村の有力者が、 「寄合(よりあい)」という会合の合議制で村の自治を行いました。番条では、当屋が代々世襲され、村祭りなどの行事を主催する形で現代まで受け継がれてきましたが、南の当屋は 2015 年に解散、北の当屋は講のみが残ります。
番条は、真言宗の信仰の厚いところです。その戸数は現在 83 戸、室町時代の成立以来あまり替わらないそうです。そして各戸が四国 88 カ所の札所に相当する厨子を持っています。毎年 4 月 21 日の「お大師さん」と呼ばれる春祭りに、厨子を各家の門に出し、飾り付けをして御供えをします。集落を一周すれば 88 カ所巡りができるということで、信仰の厚い方々が今も毎年訪れます。このような巡礼のミニチュアは、江戸時代文化・文政の頃に始まったものとされています。  (「中谷酒造株式会社HOME > 番条の歴史 > 番条町の紹介」より)]

番条町散策ルート

番条環濠集落 – Google Map 画像リンク」「熊野神社 – Google Map 画像リンク」「光明院 – Google Map 画像リンク」「阿弥陀院 – Google Map 画像リンク

カメラ北北西方向は番条環濠集落・熊野神社参道です。