筒井城跡

マーカーは筒井順慶城跡碑です。

筒井城跡
[筒井城(つついじょう)は奈良県大和郡山市筒井町にあった日本の城で、室町時代戦国時代を通じて大和国の政治史の中心的存在であった興福寺衆徒筒井氏の居城であった。
筒井城は近鉄橿原線筒井駅より東北一帯にあり、おおよそ南北 400 m 、東西 500 m あり、平地部に築かれた中世の城としては比較的規模が大きく、筒井の集落を囲む形で筒井城があった。現在の筒井城跡は、宅地、畑地、水田となっているが、内曲輪と外曲輪を巡った堀跡が点在している。その堀に囲まれた城内には筒井氏とその家臣団の屋敷があった。また『筒井氏と筒井城』によると、筒井には市場があったと確認されており、筒井城の「市場も外堀内部にも設けられていた可能性が高いと思われる」と記載している。また筒井集落は、様々な場所で道が折れ曲がり直進できない構造になっている。これらの道や地割は筒井城が築かれた当時の様子をうかがい知る事が出来る。
筒井城が築かれた時期については不明であるが、文献上の初見は『満済准后日記』に、大和永享の乱が始まった永享元年( 1429 年)で城主は筒井順覚。この時は「筒井館」と記載されている事もあった。その後、戦乱の世を生き延び居館から城郭へ発展していったのではないかと思われている。嘉吉元年(1441年)には城主は筒井順永にうつり、応仁の乱戦国時代を通じて何度か筒井城をめぐる攻城戦が行われその史料も豊富に残されている。
筒井城の石碑・wikipedia-photo、筒井城跡地/現在は畑地になっている・wikipedia-photo、筒井城の案内看板・wikipedia-photo、筒井順慶の五輪塔覆堂/重要文化財指定・wikipedia-photo  (wikipedia・筒井城より)]

wikipedia・筒井城の戦い

[菅田比売神社を中心に、ほぼ筒井町集落を含んだ範囲が城跡と推定され、小字に、シロ・ドイ・ヤシキ・堀田などの関係地名が残っている。
永享元年( 1429 ) 7 月に筒井の一族である井戸氏と豊田中坊の合戦から筒井氏・十市氏と箸尾氏が対立して「大和永享の乱」として国中に争乱が及んだが、筒井氏は常に幕府の後楯を得て、衆徒の棟梁としての地位を確立していたようである。特に筒井氏の地を根拠に在地勢力を養いつつ近隣の弱小諸豪を併せて、筒井党発展の基礎を築いたのが順永。『大乗院寺社雑事記』によると順永は長禄 3 年( 1459 ) 7 月 2 日に奈良中の郷民を召し出して、小泉館の竹木を切り払わせて筒井城の柱に使用したという。また『大乗院日記目録』によると文明 9 年( 1477 ) 1 月 11 日、畠山義就にこの筒井城を焼かれている。筒井党は東山山中に閉塞したが、筒井順慶の時代になって松永久秀と激戦を繰り返し、元亀 3 年( 1572 ) 5 月に多聞城を攻め、翌天正元年に 12 月に落とし、城を壊し始め、同 7 年 8 月 1 日には多聞城の石を奈良中の人夫に申し付けて筒井へ運ばせている。
天正 5 年( 1577 ) 8 月、松永久秀は突然、信貴山城に立て籠もり、織田信長に反旗を翻した。信長は長子信忠を大将に、明智光秀・筒井順慶の諸軍をして信貴山城を攻めさせた。 10 月 10 日久秀父子は自害して信貴山城は陥ちた。
天正 8 年 8 月 17 日、織田信長は一国一城の方針から、大和国では郡山城のみを残し、他のすべての城郭は破却することになる。
筒井城は自衛のため、土塁を築き、堀をめぐらせた平城で、低湿地であり、近世的な縄張りには不適当であったので、これを壊すことに決め、順慶は郡山城を与えられて、 11 月 19 日には奈良中の人夫を筒井に集め、移転にとりかかった。
筒井城の跡は、一般農村となりながら筒井の集落全体を包む形で残った。
城跡としては、ところどころにある蓮池が濠の名残をとどめる。城跡も宅地開発が進んできて、昭和 57 年 12 月に県立橿原考古学研究所によって、幅 4 ㍍で南北に 2 本の調査区を設定して発掘調査が行われた。結果としては溝、用途不明の落ち込みなどのほか、柱穴の底に平たい石塊を置いて礎石のように使用していたものが 5 カ所確認され、他の調査区から多数の柱跡らしい穴と直径4㍍の大きい井戸が検出された。
掘り出された遺物は若干の青磁・瓦質土器と大量の土師質小皿などであった。  (「筒井城/大和郡山市公式ホームページ」より)]

[筒井城と筒井氏
 筒井城は、主郭部を取り囲む内堀のほか、周囲の広い範囲を大きく外堀で取り囲む「惣構え(そうがまえ)」と呼ばれる構造を取っています。外堀で囲まれた範囲は東西約 500 m 、南北約 400 m に及ぶ広大なもので、奈良県内の中世平地式城館の中では最大級の規模を誇ります。また、筒井城のある場所は、東西に走る奈良街道と南北方向の吉野街道が交わる部分にあたり、交通の要衝を押さえています。
 城の中心となる主郭部は、この案内版があるフェンスで囲まれた区域から、東側の菅田比賣(すがたひめ)神社を含む東西約 120 m 、南北約 100 m の範囲と想定されます。主郭の周囲には内堀が巡らされ、中心部に城主が住む館がありました。発掘調査では、館に伴う大規模な石組みの井戸が見つかっています。主郭部の北には大型の宅地割りが並んでおり、ここに筒井家の重臣が住んでいたものと思われます。また、南には八幡神社を中核とする農村部分(垣内)を、そのまま惣構えの中に取り込んでいます。このほか、吉野街道と奈良街道が交わる部分には、奈良街道を挟む形で南北にそれぞれ市場(商店街)がありました。
 筒井城が文献に初めて現れるのは15世紀初頭のことですが、発掘調査により、14世紀中ごろにはすでに主郭を取り囲む幅約 6 m 、深さ約 2 m もの大規模な堀(内堀)があったことがわかっています。
 一方筒井氏の祖とされるのは筒井順覚(じゅんがく)で、至徳三年( 1386 )の文献にその名が記されています。しかし、これをさかのぼる康永 2 年( 1343 )の文献にも、筒井氏と思われる武士 2 名(順真・順円)の署名があることが、近年の研究で明らかになりました。すなわち、筒井城と筒井氏は、共に 14 世紀中ごろに歴史の表舞台に現れるということになります。
 筒井城最後の城主となったのは、筒井順慶( 1549 – 84 )です。順慶は苦戦の末、大和に侵攻した松永久秀に打ち勝ち、天正 4 年( 1576 )、織田信長によって大和国支配を任じられました。天正 8 年( 1580 )、筒井城は織田信長の命によって破却され、筒井氏は居城をここから約約 3.5 km 北にある郡山城に移しました。

      平成 26 年 1 月 大和郡山市  (「筒井城と筒井氏案内板(画像リンク)」より)]

大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「筒井順慶」(3-21)

筒井城跡 – Google Map 画像リンク

カメラ南西方向が筒井城跡発掘現場案内板で、左側の電柱手前のあぜ道先に筒井順慶城跡碑があります。

カメラ西方向あぜ道先に筒井順慶城跡碑があります。

筒井順慶城跡碑前のカメラです。

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