マーカーは逆さ地蔵です。
逆さ地蔵
[大和郡山城は、転用石がふんだんに使われた城として知られます。「逆さ地蔵」のほか、伝・羅城門の礎石を始め、宝篋印塔や五輪塔、石仏などが石垣にこれでもかと散りばめられています。転用石は石垣の表面だけで約1000基に及び、お地蔵様も約200基が確認されています。
平成26年(2014)からの石垣解体修理でも、大量の転用石が出てきました。天守台の約13%というごくわずかな整備範囲内で、約600石を確認。通常は河原石などを詰めるはずの裏込にも、転用石が用いられていました。裏込から見つかった石仏は58基で、およそ1割。天守の礎石や天守の入口部分にも石塔が確認されました。
転用石にはさまざまな意図がありますが、郡山城の場合は完全なる石材の補填が目的のようです。城がある西ノ京丘陵をはじめ、城の近隣はまったく石が採れない地層。郡山城の採石場は確認されていませんが、候補地はいずれも5〜10km圏内。かき集めたのは間違いなく、日用品が紛れていたことからも必死に集めたようすが伝わります。 (「[第18回 大和郡山城「逆さ地蔵」だけじゃない! 威信をかけた壮大 …」より)]
[郡山城天守台の北面石垣の築石として積まれた地蔵で、頭部を奥にうつむきに積み込まれているためさかさ地蔵の名で呼ばれています。仏身は約 90 センチで、左手に宝珠(ほうじゅ)、右手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、大永 3 年( 1523 )癸未(みずのとひつじ) 7 月 18 日の刻銘があります。いつのころからか信仰を集め、供養のために五輪塔や石灯篭が立てられ、路傍の石仏も数多く集められています。
郡山城の石垣にはさまざまな転用石材が使用されています。寺院の礎石、石塔、石仏、日常生活に使う石臼などで、石垣の表面だけでも 750 基あまりが確認されています。石垣の裏込め石など目に見えない部分にも多数の転用石材が使われていると考えられます。
郡山城は筒井順慶の縄張りに始まり、豊臣秀長の時代に大規模に築城されました。石材が乏しいうえに築城を急いだので転用石材を多数使用したものですが、当時信仰の対象となっていたものさえ容赦なく使うところに城づくりのすさまじさがうかがえます。
これらの天守台や郡山城の石垣に積み込まれた石仏、墓石並びに城史有縁の諸霊を慰めるため、毎年お城まつりの初日に数珠くり法要が営まれます。 (「さかさ地蔵案内板(画像リンク)」より)]
カメラ南東方向が逆さ地蔵がある場所になり、現在はそこに案内板が設置されています。