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郡山城跡
[郡山城(こおりやまじょう)は、奈良県大和郡山市にあった日本の城。豊臣政権の中初期には秀吉の実弟羽柴秀長の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心であった。江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。
10世紀後半、郡山衆が雁陣の城を築いたという記録が郡山城の初見とされる。奈良時代には薬園が営まれていた。郡山城は、秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵南端上に位置する。平山城または平城として明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修された。奈良は良質な石材が乏しかったため、奈良一帯の各戸に五郎太石20荷の提供を義務付け、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども徴発され石垣石として使用された。中には、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている。
17世紀初頭、増田長盛が改易された後一時廃城となるが、水野勝成入封時に徳川幕府よって改修を受けた。その後は譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里が入封後は柳沢氏が明治維新まで居城とした。
1724年(享保9年)に柳沢吉里が甲府城から移り15万石に封ぜられ、城下町の整備を努めた。この頃の城下町の様子が『郡山町鑑』にみえる。
柳沢氏が入部して以降、郡山城は安定期を迎えようとしていたが、1787年(天明7年)に大飢饉となり米騒動が起こり、城下町の民家を群衆が打ち壊し、米穀を奪い取る騒ぎとなった。また安政5年(1858年)12月1日二ノ丸付近から出火し、住居関係の建物群はすべて焼失する大火にみまわれた。1861年(文久元年)に再建に着手するが、1870年(明治3年)藩は今後城の修理を行わないことを出願し政府に聴許され、1873年(明治6年)郡山城は破却された。このとき櫓・門・塀などの建築物は入札によって売却され、運び去られたものの、石垣や堀の多くは今も往時の姿を留めている。付近の永慶寺には城門が山門として移築され現存している。
また柳沢神社創立時に植えられた桜は日本さくら名所100選にも選ばれ、毎年4月1日から行われる「お城まつり」には多くの花見客でにぎわう。
城跡は1881年(明治14年)に旧郡山中学校の校舎が二ノ丸に、旧郡山園芸高校が麒麟曲輪に建設されるなど、大きく姿をかえた。長らく荒廃していた郡山城であったが、1960年(昭和35年)7月28日、本丸と毘沙門曲輪が奈良県指定史跡となり、1983年(昭和58年)に追手門が、翌1984年(昭和59年)追手東隅櫓が、1987年(昭和62年)には追手向櫓が市民の寄付などにより復元された。
郡山城追手東櫓としだれ桜・wikipedia-photo
郡山城追手向櫓と桜・wikipedia-photo
追手向櫓・追手門(梅林門)(再建)・wikipedia-photo
追手門(梅林門)(再建)・wikipedia-photo
天守台・wikipedia-photo、
本丸と二ノ丸を結ぶ台所橋・wikipedia-photo
ウィキメディアコモンズには、郡山城の画像またはその他のファイルが含まれています。 (wikipedia・郡山城_(大和国)より)]
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カメラ西方向が郡山城跡で、カメラ方向突当り付近が鉄御門跡です。
鉄御門跡前のカメラで、右石垣下に碑があります。
カメラ北方向が追手門(梅林門)です。
追手門(梅林門)内のカメラです。
カメラ西方向が天守台です。
天守台前のカメラです。
天守台上のカメラです。