「Google Earth で街並み散歩(日本編)」で取り上げた、大津・大阪街道の街道沿いについてまとめてみました。
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大津・大阪街道について wikipedia 下記の通り記述されています。
[大津街道(おおつかいどう)は、大津宿と伏見宿を結ぶ街道。東海道・京街道の一部。伏見街道とも呼ばれる。 東海道の大津宿から京都中心部を通らず、髭茶屋追分から山科盆地を南下し、勧修寺から稲荷山の南麓に抜ける道(大岩街道)を通って京街道の伏見宿に至る街道。現在の滋賀県道・京都府道35号大津淀線である。これを南方から辿ると、伏見からしばらくは伏見街道を行くが、深草の藤森神社前で東に分岐し、現京都教育大学キャンパス東方の西福寺の角で再び北向きに転じ、 JR 奈良線を斜めに横切り小さな屈曲を経て大岩街道に合流し、これを東に辿れば山科勧修寺に至る。ここから山科盆地を北上し追分で三条大橋を起点とする東海道に合流する。
大津宿までの東海道と大津街道、伏見宿から大阪までの街道を総称して東海道五十七次(伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿を加える)とすることもある。参勤交代の西国大名が都に入り朝廷と接触することを嫌って、江戸幕府が造ったとされる。藤森神社の鳥居には後水尾天皇の勅額が挙げられていたため、社前では参勤交代の大名も下馬・一礼しなければならなかった。幕末にはこれを嫌った近藤勇が、鳥居から勅額を下ろさせたとの伝説もある。 (wikipedia・大津街道より)
京からの伏見街道は、墨染の交差点で墨染通を西に進む。墨染寺の角で再び南に折れ、撞木町の前を通り、国道24号を交差し京町通につながる。 (wikipedia・伏見街道より)
大坂街道(おおさかかいどう)は、近世日本の街道である。京街道(きょうかいどう)とも呼ばれた。大坂(大阪市)から京(京都市)を結んでいた。
大坂(大阪)の京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、淀を経て京(京都)に向かう街道である。文禄 3 年( 1594 年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が、1596 年(文禄 5 年) 2 月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源である。
淀から京都の間は大きく2つのルートが取られた。1つは桂川左岸を進む鳥羽街道であり、もう1つは現在の宇治川右岸の淀堤を経て伏見に至り、伏見から伏見街道あるいは竹田街道を経て京都中心部に達する。
伏見から大阪までの道のりは、五街道の一つである東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の 4 宿場が設けられた。東海道の大津宿から髭茶屋追分で京都・三条大橋へ向かう道と分かれ、京都を通らず大津街道を通りこれら 4 宿場を経て大坂に至る道のりは、参勤交代の経路としても用いられた。東海道五十七次と呼ぶこともある。また、淀宿と枚方宿の間に橋本という遊郭を持った間の宿が設けられていた。
伏見・大坂間は淀川を利用した舟運が盛んであり、陸路の利用は大坂からの上り客が多かった。
明治時代に入ると、鳥羽街道を経るルートが大阪街道とされ、京都・大阪間の国道(旧京阪国道)も伏見を通らないこちらのルートが選択された。 伏見を含む 4 つの宿場に沿っては、京阪電鉄京阪本線が通っている。 (wikipedia・京街道_(大坂街道)より)]
上記を参考にルートをたどってみます。
「髭茶屋追分の二又に柳緑花紅【道標】」があり「みきは京みち」「ひたりはふしみみち」とあり大津街道は南側の道路、現在の滋賀県道・京都府道35号大津淀線を進みます。名神高速道路インターチェンジ高架手前十字路東側に「牛尾山道【道標】」があります。牛尾山はハイキングコースとなっていて、牛尾山登山道途中に、かって清水寺奥の院とされ、宝亀元年 770 年 延鎮上人により開山とする法嚴寺(牛尾観音)があります。さらに、国道1号線五条バイパスを横断し進むと、山科川手前の十字路北東端にも「清水寺奥之院牛尾山道【道標】」があります。
大津街道(京都府道35号大津淀線)を南進して、再度国道1号線を横断し、東海道新幹線高架を潜ると西側に桓武天皇の墓所という伝承もある「皇塚」があり、その先、井原西鶴『好色五人女』の主人公「おさん・茂兵衛(もへえ)」の墓があることで知られている、「宝迎寺」前に「愛宕常夜灯」があり、名神高速道路手前西側に奈良街道の一里塚で、京都市内に残る唯一のものである「大宅一里塚」があります。
大津街道(京都府道35号大津淀線)は名神高速道路を抜けると京都府道7号京都宇治線が分岐しますので、そこを西側に進み、小野小町ゆかりの寺としても知られる、「隨心院」手前の小河川手前十字路(大津街道/奈良街道)を西進します。山科川を渡った突き当りに「勧修寺前【道標】」があり、そこを南進し、次の交差点で西進します。大津街道は勧修寺と伏見区深草の間を大岩街道とも言います。この付近大津街道(大岩街道)北側に、昌泰 3 年( 900 年)、醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めたとする「勧修寺(かじゅうじ)」、大阪の堀江遊郭の貸座敷「山梅楼」(やまうめろう)の主人・中川萬次郎が発狂の末に一家 6 人を殺傷した事件で、両腕を切断されながらも生存した芸妓・妻吉は紆余曲折のすえに高野山で出家し、名を大石順教と改め、半生を障害者の福祉に捧げ、昭和22年に創設した寺院「仏光院」、宮道氏によって、寛平 10 年( 898 年)に創祀された「宮道神社」、南側に江戸時代までは勧修寺の鎮守社で、創建は仁寿 3 年( 853 )と伝わる「八幡宮(吉利倶八幡)」があります。
大津街道(大岩街道)はこの先、深草谷口町(Google Map)に旧道が残り、京都ピアノ技術専門学校の先で、右斜めに入って行く。旧道西端にわずかながら連子格子、虫籠窓、犬矢来など京町家の家並みが残っている街並みを過ぎ深草谷口町交差点で府道に合流する。手前の橋袂(大津街道(谷口))に「仁明天皇御陵」、「桓武天皇陵」と刻まれた石標があります。
大津街道(大岩街道)は深草谷口町交差点の次の南方向 T 字路で京都府道35号大津淀線と分かれ南進し、突き当りを西進、直ぐの T 字路を南進し、JR 奈良線高架橋を渡り南進し、西福寺の角で西進し、駈馬神事や、菖蒲の節句の発祥地として名高い「藤森神社」参道前を通り、突き当りを南進して、墨染交差点で西進し、墨染通を進み、美しい墨染桜(すみぞめざくら)が咲くことで知られ「墨染(すみぞめ)」の地名の由来となった寺「墨染寺(ぼくせんじ)」山門前を通り大津淀線に再度合流して南進します。深草少将の邸宅跡に建つと言われる「欣浄寺」の西側を進み、赤穂浪士を率いる大石良雄( 1659 ~ 1703 )が敵方の目を欺くため、この地で遊興したことで知られる「橦木町遊廓 石碑」前を通り、国道 24 号を横断します。大津淀線は伏見区大手筋交点点が終点で、その先京町通三丁目に室町時代の寛政 2 年( 1461 年)創業の煉羊羹で有名な老舗和菓子屋「総本家駿河屋伏見本舗」があり、その向かいに江戸時代の明和元年( 1764 年)創業で、鳥羽・伏見の戦いでは、魚三楼の前・京町通に布陣した新撰組が、銃砲で武装した薩摩藩軍へ白刃で斬り込んだといわれ、表の格子には当時の銃撃戦の弾痕が残る、料亭「魚三楼」があります。
次の十字路を西進し「四辻の四つ当たり」で南進、次の T 字を西進し、竹田街道交差点に至ります。この交差点北東角に、約230年前 江戸時代天明年間に、「総本家駿河屋伏見本舗」より、分家開業した「伏見駿河屋」があり、その西角に竹田街道の道筋を走る電気鉄道の終点地を示す「「電気鉄道事業発祥の地」の記念碑」があります。そこを南進し「京橋」を渡ります。江戸時代の「東海道」の起終点は、京都の「三条大橋」でしたが、その先の大坂に至るルートとしては、陸路の「京街道」とともに、「淀川」を水路として利用し、京橋たもとに「伏見三十石船乗り場」がありました。またこの地は鳥羽・伏見の戦い( 1868 年 1 月 27 日 – 30 日)の激戦地でした。鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約 200 名が大坂から船で伏見京橋に上陸し伏見御堂(東本願寺伏見別院)を宿陣として戦いました。伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けました。この時の兵火により、文久 2 年( 1862 年)に発生した薩摩藩尊皇派等の鎮撫事件、慶応 2 年(1866年)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件の
2 つの寺田屋事件があった、旅館「寺田屋」が焼失していて、現在の建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものだということです。
江戸時代に「京橋」を渡った西側に長州藩伏見藩邸があり、京都市役所 建設局 伏見土木事務所前に「伏見長州藩邸跡碑」があります。碑の説明文に『幕末の元治元( 1864 ) 7 月 19 日未明、長州藩家老の福原越後はここ伏見長州藩邸から武装した約 500 名の兵とともに、京へ進軍しようとしました。その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大垣・会津・桑名・鯖江の藩兵と衝突、禁門の変が勃発しました。福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に立ち戻り、態勢を整えて打って出ましたが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃、このため伏見長州藩邸は焼け落ちてしまいました。』とあります。
大阪街道は、中書島交差点で西進し肥後橋を渡ります。肥後橋南東詰めには、壬申の乱( 672 年)の折に天武天皇が三栖の地を通過され、このときに村人がたいまつ炬火(たいまつ)をともし暗夜を照らして歓迎したと言われている伝説に由来する「炬火祭」(きょかさい)が行われる「金井戸神社(三栖神社御旅所)」があります。
濠川沿いを南進し、1950年代頃まで、京都と大阪(大坂)を結ぶ水運の拠点として栄えた「伏見港」横を通過し、新高瀬川に架かる歩道橋を渡り、京都府道 124 号三栖向納所線に合流して、「文禄堤」を南進します。ここは鳥羽・伏見の戦いで戦場となり、京都競馬場北高架橋傍に「戊辰戦争淀千両松の戦いの碑」があります。
納所交差点(鳥羽街道(納所))手前の旧道に「淀小橋跡碑」があり、この地点で、鳥羽街道が合流していました。現在は納所交差点が合流点になっています。淀駅前広場に「淀小橋増築碑」があり、この間に淀小橋が架かっていました。また、鴨川沿いの鳥羽街道も鳥羽・伏見の戦いで戦場となり、旧小枝橋東詰めに鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)の発端となったに「鳥羽伏見戦跡碑」があり、伏見区榎町の悟真寺に「戊辰役東軍戦死者碑」があります。また、鴨川沿いに「戊辰役東軍戦死者埋骨地(悲願寺共同墓地内)」、「戊辰東軍戦死碑(法伝寺)」、「鳥羽伏見の戦跡碑」、「戊辰之役東軍戦死者之碑(愛宕茶屋跡)、「妙教寺(淀古城跡・戊辰役東軍戦死者碑)」、「戊辰役戦場址碑」があります。
大阪街道はこの先、淀駅高架下を通過し、戊辰役東軍戦死者埋骨地である「光明寺跡」、「大専寺」、「文相寺」、「長円寺」、「東運寺」の西側を通り、淀大橋を渡り京都府道81号八幡宇治線を西進して、木津川幸橋を渡り西進し、大谷川に架かる橋本橋を渡って橋本宿に入ります。
橋を渡り進むと、「橋本北ノ町道標」その南側に「石清水八幡宮常夜灯」があります。さらに進むと突き当りに「橋本中ノ町道標」があり、そこから北西方向に進むと山崎との渡しになる「柳谷の渡し跡」があり、その手前を南西に進むと、江戸時代からは京街道の宿場町として栄え、明治以降は遊廓としての役割を果たした「橋本宿」になります。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 京阪神図」の1892~1910年の地図で確認できるルートで、京・大阪街道のルートを設定してみました。
鳥羽・伏見の戦いでは大阪街道周辺が戦場となった。以下 wikipedia の記述。
[戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)で行われた。
慶応 4 年 1 月 3 日( 1868 年 1 月 27 日)午前、鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒が接触した。街道の通行を求める旧幕府軍に対し、薩摩藩兵は京都から許可が下りるまで待つように返答、交渉を反復しながら小枝橋付近(鳥羽伏見戦跡碑)で両軍は対峙した。通行を巡っての問答が繰り返されるまま時間が経過し、大目付の滝川具挙の家臣が騎馬で駆け抜けようとするも阻まれ断念、業を煮やした旧幕府軍は午後 5 時頃、隊列を組んで前進を開始し、強引に押し通る旨を通告した。薩摩藩側では通行を許可しない旨を回答し、その直後に銃兵、大砲が一斉に発砲、旧幕府軍先鋒は大混乱に陥った。この時、歩兵隊は銃に弾丸を込めてさえおらず、不意の攻撃に狼狽し、滝川具挙の乗馬は砲撃に驚いて暴走、滝川を乗せたまま前線から走り去った。奇襲を受けた形になった旧幕府軍の先鋒は潰走し、見廻組など一部が踏みとどまって抗戦していたところ、後方を進行していた桑名藩砲兵隊等が到着し反撃を開始した。日没を迎えても戦闘は継続し、旧幕府軍は再三攻勢を掛けるが、薩摩藩兵の優勢な銃撃の前に死傷者を増やし、ついに下鳥羽方面に退却した。
一方、伏見でも昼間から通行を巡って問答が繰り返されていたが、鳥羽方面での銃声が聞こえると戦端が開かれた。旧幕府軍は陸軍奉行竹中重固を指揮官として旧伏見奉行所を本陣に展開、対する薩摩・長州藩兵(約 800 名)は御香宮神社を中心に伏見街道を封鎖し、奉行所を包囲する形で布陣していた。奉行所内にいた会津藩兵や土方歳三率いる新選組が斬り込み攻撃を掛けると、高台に布陣していた薩摩藩砲兵等がこれに銃砲撃を加えた。旧幕府軍は多くの死傷者を出しながらも突撃を繰り返したが、午後 8 時頃、薩摩藩砲兵の放った砲弾が伏見奉行所内の弾薬庫に命中し奉行所は炎上した。新政府軍は更に周囲の民家に放火、炎を照明代わりに猛烈に銃撃したため、旧幕府軍は支えきれず退却を開始し、深夜 0 時頃、新政府軍は伏見奉行所に突入した。旧幕府軍は堀川を超え中書島まで撤退して防御線を張ったが、竹中重固は部隊を放置したまま淀まで逃げ落ちた。
この時の京都周辺の兵力は新政府軍の 5,000 名(主力は薩摩藩兵)に対して旧幕府軍は 15,000 名を擁していた。鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、旧幕府軍は狭い街道での縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれた。
翌 4 日は鳥羽方面では旧幕府軍が一時盛り返すも、指揮官の佐久間信久らの相次ぐ戦死など新政府軍の反撃を受けて富ノ森(Google Map)へ後退した。伏見方面では土佐藩兵が新政府軍に加わり、旧幕府軍は敗走した。また同日、朝廷では仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命し、錦の御旗と節刀を与え、新政府軍がいわゆる官軍となる。
5日、伏見方面の旧幕府軍は淀千両松(戊辰役東軍戦死者埋骨地(宇治川堤千両松の地))に布陣して新政府軍を迎撃した。一進一退の乱戦の末に旧幕府軍は敗退し、鳥羽方面の旧幕府軍も富ノ森を失う。そこで現職の老中でもあった稲葉正邦の淀藩を頼って、淀城に入り戦況の立て直しをはかろうとした。旧幕府軍は、新政府軍を足止めするため伏見の町一帯に放火すると、淀城へ向かった。しかし淀藩は朝廷及び官軍と戦う意思がなく、城門を閉じ銃口を向け旧幕府軍の入城を拒絶した(ただし、藩主である正邦は当時江戸に滞在しており、藩主抜きでの決定であった)。入城を拒まれた旧幕府軍は、さらに大阪寄りの男山・橋本方面へ撤退し、旧幕府軍の負傷者・戦死者は長円寺へ運ばれた。また、この戦闘で新選組は古参の隊長であった井上源三郎ら隊士7名が戦死した。
5日夜、勅使四条隆平は西国街道上の山崎関門(梶原台場)へ赴き、山崎一帯の津藩兵を指揮する藤堂采女を説得して寝返らせ、これらの津藩兵を官軍とした。
6日、旧幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣した。西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方率いる新選組の主力などを擁する旧幕府軍の本隊が陣を張った。東に男山、西に淀川、南に小浜藩が守備する楠葉台場を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にあった。
しかし、山崎の一帯を守備していた津藩兵が官軍に転じていたため、淀川対岸の高浜砲台(高浜船番所・島本町)から旧幕府軍へ砲撃を加えた。思いもかけない西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなった。楠葉台場からは西岸へ向けて反撃の砲撃が行われたが、東岸にも官軍が現れた。陸路からの攻めに弱かった楠葉台場も放棄され、幕府軍は淀川を下って大坂へと逃れた。また、この戦いで、京都見廻組の長であった佐々木只三郎が重傷(後に死亡)を負ったとされる。 (wikipedia・鳥羽・伏見の戦いより)]