マーカーは「粟津の晴嵐」碑です。
近江八景(粟津晴嵐)
[近江八景(おうみはっけい)は、日本の近江国(現・滋賀県)にみられる優れた風景から「八景」の様式に則って8つを選んだ風景評価(作品の場合は題目)の一つである。
●石山秋月 [いしやま の しゅうげつ] = 石山寺(大津市)
●勢多(瀬田)夕照 [せた の せきしょう] = 瀬田の唐橋(大津市)
● 粟津晴嵐[あわづ の せいらん] = 粟津原(大津市)
●矢橋帰帆 [やばせ の きはん] = 矢橋(草津市)
●三井晩鐘 [みい の ばんしょう] = 三井寺(園城寺)(大津市)
●唐崎夜雨 [からさき の やう] = 唐崎神社(大津市)
●堅田落雁 [かたた の らくがん] = 浮御堂(大津市)
●比良暮雪(下絵) [ひら の ぼせつ] = 比良山系(大津市)
の8つのこと。
粟津の晴嵐 – 昭和初期には500本の松が残っていたが、その後の地域開発などにより3本が残っているだけになっている。大津市では枯れた時点で伐採し新たな植樹などは行わないと述べている。一方、晴嵐の名は地名や小学校名などとして使用されている。 (wikipedia・近江八景より)
粟津の戦い
[粟津の戦い(あわづのたたかい)は、寿永3年1月20日(1184年3月4日)に近江国粟津にて行われた源義仲と源頼朝派遣の東国諸将との間の戦い。治承・寿永の乱の1つ。
法住寺合戦後、源頼朝は後白河法皇の命を受けて弟の範頼・義経以下、傘下の東国諸将に義仲討伐を命じた。宇治川の戦いなどで敗れた義仲は後白河法皇を連行して京都を脱出しようと図るが、六条河原の戦いで再度敗れて、今井兼平らわずかの兵を連れて根拠地のある北陸への逃走を試みた。
平家物語では悲壮感が多く主従がお互いへの愛情など平家物語での涙を誘うクライマックスシーンの1つである。
義仲が近江国粟津に着いたところ、長年信濃国の支配を巡る争いで因縁があった一条忠頼率いる甲斐源氏軍と遭遇、最早戦力として成り立たなくなっていた義仲軍は潰滅し、義仲 今井兼平 巴御前 手塚光盛 手塚別当の僅か5綺であった。義仲が 手塚別当に逃げよと促す最中に別当は躊躇する。更に手塚光盛が別当に逃げよと催促するも討死する。手塚別当を逃げよと催促する間に 手塚光盛は敵に囲まれて討ち死にし果てる。義仲が落ち延びよとの巴御前に催促し巴は義仲に最後の奉公と敵将恩田八郎の首をねじきり離脱する。辛うじて逃げ切った義仲に従うのは兼平のみであった。そこで義仲は覚悟して自害の場所を求めて粟津の松原に踏み込んだところ、馬の脚が深田に取られて動けなくなり、そこを顔面に矢を射られて討ち死にし、これを見た兼平も自害して、木曾源氏勢力は崩壊した。
なお、義仲を討った人物については諸説あり、『平家物語』『吾妻鏡』は三浦氏庶流の石田為久、『愚管抄』は義経配下の伊勢義盛と伝えている。 (wikipedia・粟津の戦いより)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第十 土山ヨリ京マデ」(コマ番号19/26)
左地図下左に「あわずの原」と記述され、その左に「一里塚 京より四里 江戸より百十六里」「兼平塚」と記述されています。
「東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」・「粟津松原」(1巻 – 76)、「木曽四天王・今井四郎兼平」(1巻 – 77)
「伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [編画] ; [秋里湘夕] [撰] 」・「粟津合戦」(1巻 – 48)
カメラ東北東方向に「粟津の晴嵐」碑があります。
「粟津の晴嵐」碑(Google Map 画像)