寂光寺(藤尾磨崖仏)

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寂光寺(藤尾磨崖仏)
[寂光寺は日蓮宗のお寺です。何でも明治時代に改宗したのだそうです。寂光寺は鉄筋コンクリートの新しいお堂です。藤尾磨崖仏はその隣のお堂です。
 お堂の鍵が開き、中へはいると住職が待っていて下さいました。御簾が上げられると、磨崖仏が現れました。ウーン見事!
 何と行っても中尊の阿弥陀さまが美しいお顔をしておられます
『大津市指定文化財 彫刻
藤尾磨崖仏 十五躯(大津市藤尾奥町)
 小関越えの途中にあり、古くは「山田堂」「藤尾観音堂」と呼ばれる寺にありました。
 高さ278cm・幅566cmの横長の花崗岩に、大小十五体の像と梵字が彫られています。
 中尊は、像高148cmの阿弥陀如来像で、向かって右側に観音勢至の両菩薩像、日狩り川には地蔵菩薩像が彫られています。阿弥陀如来像の光背外側に「延応二年」(1240)と読めそうな刻銘があり、像の様式から見ても鎌倉時代の作と考えられています。これに対し、他の諸尊は形も小さく、彫法も粗荒なものがあるところから、後に追刻したと考えることができます。
 昭和56年(1981)1月、大津市の指定文化財に指定されました。
                                       大津市教育委員会  平成7年(1995)三月』

『寂光寺の磨崖仏についての由緒
 この磨崖仏は高さ十尺横二十尺に互って山より突出した花崗岩を垂直に切って、その崖に浮き彫りしてあります、
 中央に大きく阿弥陀如来像(中尊)その左に地蔵立像、右に観音立像勢至立像、釈迦立像の五体が浮き彫りされている。その上下に小さな像が五体ずつ彫られて、大小合わせて十五体あります。
 作者は地元では「三井寺開基智証大師一夜の作」と伝えられているが、もとよりさほど古いものではないが、不明である。
 中央に銘が刻まれているが、それを判読すれば
      延応貳年庚子二月廿二日供養
とあり今から七百六十余年以前になります。
 この寺は、もと山田堂と言われ又観音堂とも呼ばれています。この石仏は、もと露仏だったと思われますが、寺前の途は小関越といって逢坂山の本関に対する裏関に通ずる途です。昔は人通りも、多くて道行く人がここで一服し、清水を飲み弁当を使ったようです。かくてここに古い石碑が三基残っていて、その中に元禄年間了慶法師の文字が判読されます。
 昔はこの奥に三井寺三千坊と呼ばれる多くの寺院がありましたが、織田信長の如意ヶ嶽最初の焼きうちに逢い殆ど焼失しましたが、次回の焼きうちにて僧堂も焼け、その焼跡にあった尊像を村人が見つけ一時預かっていた山田堂改築に伴いここに移された聖観世音菩薩があります。(新本堂)昭和六十一年十月東京芸大芸術学部、水野敬三郎教授一行が調査されました結果「紛れもない運慶派の一作ととして見事な出来映えを示す聖観音像に一同大いに感銘をうけました」とお言葉を戴いています。
 平成十九年四月  寂光寺 住職』  (「藤尾磨崖仏」より)]

大津市 寂光寺「藤尾の磨崖仏」 – 愛しきものたち – Gooブログ

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カメラ南東方向が寂光寺参道です。

カメラ東方向北門左に磨崖仏安置のお堂があります。