マーカーは小関越道標です。
小関越道標
[北国街道(西近江路)から別れて藤尾で東海道に合流する約5キロメートルの道は、かつて東海道の間道として利用され、小関越と呼ばれていました。この道標が立つのは、小関越から園城寺(三井寺)へ向かう道の分岐点にあたります。江戸時代中頃の建立で、高さは95センチメートルあります。
三面には「左り三井寺 是より半町」、「右小関越 三条五条いまく満 京道」、「右三井寺」と刻まれています。
三井寺は西国三十三所観音寺巡礼の第十四番札所として多くの参詣者がありました。刻銘の「いまく満」は第十五番札所の京都今熊野観音寺のことで、この道が巡礼道であったことを示す資料ともなっています。昭和五十年(1975)1月、大津市の有形民俗文化財に指定されました。 大津市教育委員会 平成16年(2004)8月 (「道標滋賀0071 小関越道標 ・ かたヽげんべゑのくび – アートプラス京めぐり」より)]
「蓮如上人御舊跡 等正寺 かたヽげんべゑのくび」碑
[西国三十三霊場巡りの十四番札所、三井寺観音堂には浄土真宗の開祖、親鸞聖人の御像が安置されている。蓮如は寛正の法難に会う直前、命からがら本願寺から持ち出した御像は、湖南・湖西の各地を転々としていた。蓮如は三井寺の万徳院住職長命に、本願寺再興の時まで御像を預かって欲しいと念願して北陸へ布教の旅に出る。のち、三井寺では寺領の一部をさいて、五別所の一つ南別院近松に坊舎(近松別院)が建立される。親鸞聖人の御像は安住の住みかを得るのである。文明十二年(一四八〇)山科に念願の本願寺御影堂が完成する。ここで「かたた源兵衛の首」の伝説を述べねばならない。蓮如とその側近は三井寺に親鸞聖人の御像の返還を求める。三井寺はそれは出来ぬ、信徒衆の首を二つ持ってくれば返してやる、と。熱心な信徒であった堅田の源右衛門は息子の源兵衛の首を持参し、もう一つは自分の命を差し出すからと返還を懇願する。慌てた三井寺は、源右衛門に親鸞聖人の像を持ち帰るように命じる。その源兵衛の首が、小関越の途中にある等正寺に奉っているという。一方、三井寺の説によると、本願寺が比叡山延暦寺の焼き討ちに会ったとき、蓮如を手厚く庇護し、その師親鸞聖人の御像も丁重にお守りした。また、後にはその御像を奉るため、坊舎(近松別院)も建立している。いま、観音堂に奉られている親鸞聖人像は、蓮如自らがそのお礼に彫り、奉納されたものだ、という説である。 (「浄土真宗中興の祖・蓮如上人と – 三井寺」より)]
カメラ東南東方向に小関越道標があります。その左に「蓮如上人御舊跡 等正寺 かたヽげんべゑのくび」碑があります。