瀬田の唐橋

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瀬田の唐橋
[瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡る。 勢多の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも言われる。
京都宇治橋山崎橋とならんで日本三名橋・日本三大橋の一つとされてきた。また、1986年(昭和61年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された、「日本の道100選」にも選ばれている。
歴史と伝説
東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡る、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。1889年(明治22年)まで瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝であり、京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。唐橋を舞台として繰り広げられた、壬申の乱寿永の乱承久の乱建武の乱など、昔から様々な戦乱に巡り合ってきた。
古代
唐橋が架けられた年代は不詳であるが、神功皇后の時代にはすでにあったといわれ、摂政元年、香坂皇子忍熊皇子が反乱。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したという(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。
壬申の乱(671年)では、大友皇子大海人皇子の最後の決戦場となった。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ。御霊神社の主祭神は大友皇子である(『日本書紀』 天武天皇 上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上の初見である。
藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱、764年)では、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回り。これを焼く。押勝は高島郡に走り、滅びた(『続日本紀淳仁天皇 天平宝字八年九月)。
平安時代
●870年1月9日(貞観11年12月4日)に火事(『日本三代実録』巻十六)。
●871年12月19日(貞観13年11月4日)に火事(『日本三代実録』巻二九)。
●『延喜式』主税式によれば、近江国の国司の管理下に置かれ、同国の正税・公廨稲から「勢多橋料」1万料が拠出され、その出挙収入によって橋の維持が行われ、朝廷への報告義務もあった。
藤原秀郷の大ムカデ退治伝説として有名だが、背景には平将門の乱平定があるといわれる。
●970年8月25日(天禄元年7月21日)に藤原道綱母が明け方に船で勢多橋を渡河(『蜻蛉日記』)。
治承・寿永の乱(源平合戦) 1183年(寿永元年)に源義仲対平家、1184年(寿永2年)に源義経対義仲の合戦があった際に、源範頼が攻める瀬田橋の橋板をはずして守っていたのが今井兼平。宇治で敗れた義仲と合流し、粟津で敗死(『平家物語』)。
鎌倉・室町時代
承久の乱 1221年(承久3年)、後鳥羽上皇の京軍(山田次郎重忠が率いる比叡山僧兵三百騎)と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦。
●建武の戦い 1336年(建武4年)、足利直義率いる足利勢と名和長年率いる朝廷軍が瀬田川を挟んで交戦。足利尊氏は南下して宇治川で楠木正成に勝利し、京都へ進攻。
観応の擾乱 1350年(観応元年)12月4日、足利直義派の伊勢・志摩守護石塔頼房上野直勝とともに近江に進出し、近江守護軍と交戦。その日のうちに瀬田へ進出し、唐橋を焼き払った。
本能寺の変天王山の戦い 唐橋を現在の位置に移したのは織田信長。架橋奉行は木村次郎左衛門と瀬田城主の山岡景隆で、若狭の神宮寺山と近江朽木から材木を取り寄せ、幅四軒(約7.2m)長さ一八〇軒(約327m)の橋を90日で完成させた。明智光秀が本能寺の変で信長を倒すと、光秀が安土城を攻めようと橋を渡ろうとしたため、景隆は唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止した。光秀が仮橋を架けるのに3日かかっている。
焼失後の唐橋を架けたのは豊臣秀吉で、そのとき初めて現在の位置に、大小二橋の橋を架けたとされる。
江戸時代
膳所藩(本多家)が管理。東海道がここを通った。江戸幕府は、瀬田川に唐橋以外の他の橋をかけることを禁じ、膳所城主に保護監理の任務を課した。1795年(寛永7年)から1894年(明治27年)までの100年間で、18回の架け換えの記録が残っており、安藤広重の浮世絵「近江八景・瀬田の夕照」は、往時の唐橋の様子をよく伝えている。
明治以降
1875年(明治8年)12 月に国が、1895年(明治28年)3 月に県が、ともに木造にて架替。
1919年(大正8年)に道路構造令が公布されたのを機に、翌1922年(大正11年)4月に事業費47万円(当時)をかけて事業に着手し、1924年(大正13年)6月に、これまで木造であった橋が、はじめて鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられた。
その後、補修は何度か繰り返し行われてきたが、1974年(昭和49年)に本格的な架橋工事が行われ、1979年(昭和54年)に現在の橋が竣工した。橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存する。1995年(平成7年)、瀬田唐橋の小橋に右折レーン設置のための工事が着手され、1997年(平成9年)に終了した。2012年(平成24年)には、唐茶色に塗り替えられ、現在に至っている。
瀬田の唐橋 全景・wikipedia-photo

  (wikipedia・瀬田の唐橋より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第十 土山ヨリ京マデ」(コマ番号19/26)
絵図をスクロールすると、右絵図に「水海」に瀬田の唐橋が描かれています。

  
近江八景(勢多(瀬田)夕照)
[近江八景(おうみはっけい)は、日本の近江国(現・滋賀県)にみられる優れた風景から「八景」の様式に則って8つを選んだ風景評価(作品の場合は題目)の一つである。
石山秋月 [いしやま の しゅうげつ] = 石山寺(大津市)
●勢多(瀬田)夕照 [せた の せきしょう] = 瀬田の唐橋(大津市)

粟津晴嵐 [あわづ の せいらん] = 粟津原(大津市)
矢橋帰帆 [やばせ の きはん] = 矢橋(草津市)
三井晩鐘 [みい の ばんしょう] = 三井寺(園城寺)(大津市)
唐崎夜雨 [からさき の やう] = 唐崎神社(大津市)
堅田落雁 [かたた の らくがん] = 浮御堂(大津市)
比良暮雪(下絵) [ひら の ぼせつ] = 比良山系(大津市)
の8つのこと。  (wikipedia・近江八景より)]

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)大津』

[瀬田の唐橋を渡る。この付近は源五郎鮒や蜆が名物である。  (「【東海道五十三次】大津(おおつ) 飾皿 – 美術品 – 有田焼や …」より)]

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」・「勢田橋」(2巻 – 18)

伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [編画] ; [秋里湘夕] [撰] 」・「勢田橋」(2巻 – 4)

瀬田唐橋 – Google Map 画像リンク

瀬田の唐橋

瀬田の唐橋東詰め

瀬田の唐橋西詰め