上地図右のサードバーのマーカーポイント名をクリックするとマーカーポイントの吹き出しが表示されます。
石場の常夜燈
[石場の常夜燈
滋賀県立琵琶湖文化館と琵琶湖ホールの間にある湖岸公園の一角に常夜燈が立っており、行きかう人がしばしばこの燈を見上げています。常夜燈とは、文字通り一晩中つけておく明かりのことです。湖岸公園にある常夜燈は、もともと石場に建てられたもので、琵琶湖の西岸に位置する大津市石場と東岸に位置する草津市矢橋(やばせ)との間を往来する船の目印となりました。湖岸の埋め立てとともに、昭和43年(1968)に石場(現在の大津警察署の裏)から琵琶湖文化館の前に移築され、その後現在の場所に移されました。
この石場の常夜燈は花崗岩でできており、高さが約8.4mで、裾広がりの堂々とした姿を見せます。銘文を見ると、弘化2年(1845)に鍵屋傳兵衛・船持中が発起人となって建立されたことがわかります。また、近江・大坂・京都・尾張等からの寄進者名も刻まれており、広域にわたって多くの人が琵琶湖水運に携わっていたことがうかがえます。
石場は旧東海道筋で、江戸時代の元禄年間から対岸矢橋への渡船場としてにぎわっていました。明治時代以降も湖南汽船の舟乗場が設けられていましたし、京都~馬場~大津(現浜大津)間の鉄道開通時には石場に停留所が設置されるなど、水陸ともに交通の要所としての役割を果たしました。対岸の矢橋もまた中世から湖南の渡船場として栄え、「矢橋の帰帆」として近江八景の一つに数えられるなど名勝地としても知られています。
●小船入の常夜灯
石場の近くにもう一基の常夜燈がのこされています。それは、舟着場であった小舟入(こぶないり)に建てられた常夜燈で、石柱部分に「文化五年戊辰年九月建之」と刻まれています。文化5年は1808年のことですから、石場の常夜燈よりも古いものであることがわかります。
小舟入の常夜燈は、石柱上の火袋が木製で切妻屋根となっています。柱の刻銘から京都の伊勢講のひとつであった恒藤講が、伊勢両宮の常夜燈として建立したことが知られ、基壇部分には京都と大津の世話人と石工の名前が刻まれています。当時小舟入には水茶屋が軒を連ねて、伊勢参りの人々でにぎわいを見せていました。 (「新近江名所圖絵 第217回 石場と小船入の常夜燈 – 公益財団法人 …」より)]
[江戸時代に東海道の宿場町として賑わった大津町の東の外れ、松本村地先の琵琶湖岸に設置された船着場が石場である。 江戸時代には東海道の間道として利用された対岸の栗太郡矢橋村(現在の草津市矢橋町)との聞の渡し船で賑わった船着場であり、 『近江名所図会』などには湖中に突出した石垣組の船着き場が描かれている。この石場の船着場に弘化 2 年 ( 1845 )に建立されたのが、 「石場津の常夜燈」である。現在は 300m ほど位置を移して、びわこホール績のなぎさ公園内に建つ高さ約 8m の大常夜燈は、江戸時代に盛んであった湖上交通を偲ぶことができる貴重な水の宝である。 (「急がば回れ 石場津の常夜燈 – 滋賀県」より)]
「東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」・「義仲寺 芭蕉塚 松本渡口場」(1巻 – 73)
[左ページに松本渡口場、右ページ中程右に義仲寺 芭蕉塚が描かれています。]
「伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [編画] ; [秋里湘夕] [撰] 」・「石場」(1巻 – 42)、「膳所 矢橋渡舟」(1巻 – 45)
[石場(イシバ)
旅より帰る人を迎へて 宴を催すを 今酒迎といへども
是は古より あふ坂まで出て迎へたるものなれば
坂むかひといふべし
又云 日本紀神功皇后紀 挙觴以壽干太子 云々
按るにホカヒは 祝にて酒祝也 されば帰宅を
悦ぶの宴なれば 酒祝の転じたるにも有べし (「伊勢参宮名所図会」より)]
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」 – 「大津石場」( 1巻 – 28 )
「石場の常夜燈 – Google Map 画像リンク」「小舟入の常夜燈 – Google Map 画像リンク」
カメラ北東方向が現在の石場の常夜燈です。
カメラ北北東方向が小船入の常夜灯です。