マーカーは草津追分です。
草津追分
[東海道の江戸方からは、草津川を越えて、堤防沿いに進むと、東横町・西横町と続き、中山道との合流点に至る。ここで左折し、一町目から六町目まで続き、宮川を渡って、最後が宮町である。中山道からは、天井川である旧草津川をトンネルで抜けると追分に至るが、トンネルができたのは明治19年(1886年)のことである。
●追分道標
追分とは道の分かれるところを指す言葉である。草津宿にある東海道と中山道との分岐点を「追分」といい、そこに立てられている道標を「追分道標」という。
東海道(右折)と中山道(直進)の分岐点、草津追分。右側に道標。wikipedia-photo
木曽海道六拾九次之内 草津追分(水無川の天井川・草津川を渡る人々)
(wikipedia・草津宿より)]
「東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」・「草津追分」(2巻 – 34)
「伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [編画] ; [秋里湘夕] [撰] 」・「三上山 草津川」(2巻 – 12)
[江戸時代の草津宿の面影をうかがわせるのが、東海道と中山道の分かれ目に建てられた「追分道標」です。
草津宿本陣から徒歩約1分のところにあります。
1816年に飛脚仲間によって寄付されたもので、「右 東海道いせみち/左 中仙道美のぢ」と刻まれています。道標の上部にある火袋は、現在は木製ですが、文政4年(1821)頃につくられた「栗太志」には当時は銅製であったと記されており、大変立派なものであったことが分かります。 (「草津宿と本陣について – 草津市」より)]
高札場(こうさつば)
[草津宿の高札場は道標のそばに建っていたことが「東海道名所図会」にうかがえます。高札場の規模は、石垣高さ2尺6寸、その上に高札を掛けるところがあり、高さ1丈3尺・長さ1丈5尺・横5尺5寸と記されています。6~7枚の高札が掛けられたということです。 (「草津商工会議所ホームページ<観光ルートのご紹介>」より)]
草津川
[草津川の天井川化は江戸時代に始まるとされている。古文書から1700年代末ごろまでは天井川であったことを確認できず、河底に国道のトンネルを開通させた明治19年までの間に、多量の土砂流出と堤防の積み上げにより短い期間に一気に形成されたものと考えられている。天井川が形成されて以降は、増水のたびに河川の氾濫を繰り返すようになったことが、記録に多く残された。2002年7月、治水事業として中流域から琵琶湖にかけての草津川放水路が開削されたため、天井川を成していた旧河道は廃川となった。従来の流路を旧草津川とも称する。
草津川堤防の形成過程には大きく6段階あることが都市計画道路大江霊仙寺線の整備工事による堤防の断ち割り調査の際に判明した。まず、江戸時代初期には低い堤防があり、内側の川幅が現在より広くとられていたものが、江戸時代中期頃に礫土砂の堆積などにより川床が年々高くなり、川浚えすることにより徐々に堤防が築かれ、江戸時代後期には現在の天井川の形となった。 (wikipedia・草津川より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第十 土山ヨリ京マデ」(コマ番号16/26)
絵図を右方向にスクロールすると草津追分、札の辻が描かれています。
「草津宿 追分道標 – Google Map 画像リンク」「草津川跡地公園 de愛ひろば(区間5) – Google Map 画像リンク」
カメラ北東方向が東海道(右折)と中山道(直進)の分岐点の草津追分道標です。カメラ北方向隧道前左に高札場の模型が設置されています。
草津川跡地公園となった、草津川河川敷のカメラです。