野路一里塚

マーカーは野路一里塚の案内碑です。

野路一里塚
[関ヶ原の合戦で、天下を手中にした徳川家康は、慶長6年に東海道、慶長7年には中山道に対する伝馬徴発令を発布するなど、いち早く江戸を中心とする交通、運輸網の整備を進めた。慶長9年(1604)には引き続き東海道、中山道、北陸道の街道沿いに一里塚を築造した。一里塚は江戸日本橋を起点とした一里ごとに旅の里程の目安として設けられた塚で、その中央に榎などの樹木を植えたために、旅人の疲れを癒す格好の場ともなった。
 東海道分間延絵図(文化3年作成)には、ここ野路の北川の北方の街道の両側にも、長い松並木とともに一里塚が描かれているが、その木立は天保14年作成の東海道宿村大概帳や元禄3年刊行の東海道分間絵図によれば、双方とも松であったことが明らかである。
草津市
《石碑銘文》
 野路一里塚は、この石碑より北西に約30mの所と道路(旧東海道)を挟んだ北東約20mの所の二ヶ所あった。明治14年頃に官地が私有地に払い下げられ、消滅するにいたった。ここに野路一里塚の旧地を証するため、この石碑を建立する。  (「黒門。うばがもち。野路一里塚。・・・(草津駅から京阪追分 …」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第十 土山ヨリ京マデ」(コマ番号17/26)
絵図を右方向にスクロールすると、「江戸から百十四里 京から六里 一里塚」と記述されています。

  
上北池公園 Google Map 画像リンク

カメラ位置は上北池公園で、カメラ東南東方向が野路一里塚案内碑です。

カメラ西方向が石碑になります。