念佛寺

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念佛寺
[「灯籠山古墳」の角を右に曲がると、本堂の屋根と鐘楼、十三重石塔がコンクリートの塀越しに見える浄土宗・大塚山宝性(ほうしょう)院「念仏寺」です。開基は行基で、今は廃寺の真言宗「旧中山寺」の一坊と伝えられ、本尊は焼け残りの弥陀、「阿弥陀如来立像」で、室町時代の1498年(明応7年)に地震で炎上し、その後、十市城主の十市遠忠が、1550年(天文19年)に再興しましたが、1709年(宝永6年)再び焼失して、同年沢公が再建。背後の燈籠山(とうろうやま)古墳の前方部にある墓地は、当寺の所有で、高さ2mの五輪塔坂上田村麻呂の墓で、南北朝貞和5年(1349年)の地蔵石仏もあります。  (「山の辺の道(その18)」より)]

[奈良時代天平17(745)年に行基僧正によって開山されました。現在お寺の東側墓地の中腹に「行基大菩薩」の石碑があります。
行基僧正が中楽寺の十一面観音を参籠された時に、現在お寺があるこの場所を「長山(おさやま)」と名付けました。そこで土の中に光るものを見つけ、拾ってみると1本の朽ち木でした。行基僧正はこれを彫って本尊とし、この時にお寺の名前を「念佛寺」としたそうです。
その後、道源法師にお寺が引き継がれましたが、行基僧正が現在の場所にお寺を移すべし、という内容の夢を見たのです。時を同じくして、村人も同じ夢を見たことからこれは佛勅だと思い、みんなで現在の場所にご本尊を移して、ここを「大塚」としました。このことからこのお寺を「大塚念佛寺」とし、お寺の東側にある塚は、ここで毎晩燈籠を用いて供養したことから「燈籠山」と呼ぶようになったそうです。
しかし、戦国時代明應7(1498)年に地震に遭い、本堂が焼失しました。なんとかご本尊様だけは助かりました。その後、天文11(1542)年、十市兵遠忠と言う人物が病にかかった際、この阿弥陀如来様に祈誓したところたちまち快復したとして、そのお礼に本堂が再建されました。
ところが、江戸時代寛永6(1629)年、またもや本堂が全焼。しかしこの時もご本尊のみが焼け残りました。人々はこれを「焼け残りの弥陀」と呼び、丁重に奉ったそうです。
その後、寛永10(1633)年、円誉上人と村に人々の力により本堂を再建。承応元(1652)年、常誉上人によって浄土宗へと改宗され、今日に至ります。  (「浄土宗 大塚山寳性院 念佛寺ホームページ」より。)]

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カメラ東南東方向が念佛寺参道です。

カメラ北方向が念佛寺山門です。

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