奈良奉行所跡

マーカーは奈良女子大学記念館(奈良奉行所跡)です。

奈良奉行所
[興福寺東大寺など南都の大寺院の監視とその門前町(北町・南町)の支配のため設置。南都町奉行とも呼ばれる。老中支配だが、直接には京都所司代の指揮下にあり、その主要任務は春日大社の警衛と神事であった。
慶長18年(1613年)に設置。定員1~2名。役高1,000石で、役料700俵を支給された。奈良に駐在し、配下は与力7騎と同心30人に牢番1人。奉行所は現・奈良女子大学の敷地内に置かれていた。
江戸幕府以前、豊臣政権時代の天正10年(1582年)にも同名の奉行職はあった。  (wikipedia・奈良奉行より)]

[奈良町に奉行職が置かれた年代や、最初の奉行についても、諸記録は必ずしも一致していない。たとえば、「奈良旧記」(「藤本家文書」京大図書館蔵)では初代奉行として井上源五高清の名をあげ、その在職を天正十年(一五八二)から慶長五年(一六〇〇)までとし、原田仁右衞門・初鹿野加右衛門・鈴木左馬助・中坊秀政らをつづいてあげている。しかし、井上源五は豊臣秀長の奈良代官であり、原田・初鹿野・鈴木の三人は江戸幕府の奈良代官大久保長安配下のものである。
このようにみてくると、井上源五や大久保長安らが、奈良町の司法・行政をみたことは事実であったとしても、奈良奉行職の始源は、慶長十八年(一六一三)に任命された中坊飛騨守秀政に求めるべきであり、これによって奈良町は、堺・長崎などと同列に並ぶ遠国奉行配置の町に列したのであろう。
中坊氏はもともと大和の土豪で、筒井氏に属し、筒井氏が伊賀に移されるとその家老職についていた。ところが、関ケ原の戦後秀祐は大久保長安に接近し、吉野郡に三五〇〇石を与えられ、大和・近江の幕領代官を勤め、やがて南都のことに関与するようになっている。
中坊秀政は奈良奉行に任命された当初、その自宅を奉行屋敷としていたが、しばらくして本格的に奉行所の造営にとりかかっている。その位置は、現在の奈良女子大学の所在地にあたり、東は鍋屋町黒門通りを北へ見通し、南は宿院町裏まで、西は南法蓮町の東面に接し、北は北魚屋西町の裏にまでおよんでいた。このため地域内にあった称名寺は西方の菖蒲池町に移され、また法蓮村への道路は切断されることになった。奉行所の敷地は東西南北ともほぼ九二間、総坪数八六七五坪余で、この規模は近世の奉行所としては類をみないものといわれる。東に正門があり、囲みの中には二八棟の建物があった。江戸時代中期のものと推定される奉行所の建物配置の主な部分は下の図のとおりで、この図に入らない西南部には庭園、西北部には東西に長い土蔵があった。南面する書院は玄関の左にあり、町民らのあいさつの場であり公事場であって、奉行所内のもっとも重要な部分をなしており、庭に面して白洲があった。奉行の居間は書院の後ろに別棟をなし、与力・同心の詰所などがその近くにあった

幕藩制成立期の上方支配は、京都所司代を中心に、大坂町奉行堺町奉行や京都近郊の長岡藩(麻井)らによる合議によって進められていた。奈良町も当然のこととしてその体制に組み込まれ、奈良奉行設置以来、京都所司代を通して法令の伝達にあずかり、民政にあたっていたものである
こうした上方独自の支配体制は、寛永十一年(一六三四)の三代将軍家光の上洛を契機に一層強化されることになった。こうした上方支配体制の再編成の動きの中で、奈良奉行もまた大きく変質していった。慶長十八年(一六一三)以来、父子二代奈良奉行を勤めてきた中坊氏は、さきにも述べたように、奈良町寺社勢力と深い関係を持っていた。寛文三年(一六六三)十月、奈良奉行中坊時祐は老齢(七三歳)を理由に奉行職を辞した。翌四年(宍六四)四月、遠洲荒居奉行から旗本土屋忠次郎利次が奈良奉行に転じてきた。そして、これまで中坊時祐が兼務していた代官職を解き、新たに大和の幕領を預かる奈良代官が設置されることになり、五味藤九郎豊旨がこれに任じられたのである。いうまでもなく、この奉行と代官の分置のことは、幕府の上方支配機構の改革の一環につながるものであり、これ以後の奈良奉行は、興福寺東大寺多武峯春日社および吉野郡寺社を除く大和一国の寺社支配、大和一国中への法令伝達や治安維持だけをその任務とすることになった。  (「第二節 奈良町の形成とその支配[PDFファイル/2.1MB] – 奈良市」より)]

川路聖謨 の施政

和州奈良之圖(天保15・1844年)」(絵図中央左下に奈良奉行所が描かれています。)

奈良奉行所跡に建つ、奈良女子大学記念館(旧本館)のストリートビューです。

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